思い出の旅シチリア ⑬ローマ時代の別荘:モザイク御殿
書きっぱなしの旅記事がたまってきました。今度はシチリア編の続きです。(もう
自分でもわけがわからなくなっとるんちゃうか?by妻)
3日目(実質2日目)は、シチリアの州都パレルモから、チャーターした運転手付き
のベンツに乗りシチリア各地を回ってから、妻が行きたがっていたリゾート地のタオル
ミーナに向かいます。(何様じゃッて感じ。by妻)
午前中はシチリア南岸のアグリジェントを訪れて、古代ギリシア時代の遺跡と博物館
を見学しました。しかし見どころが多くて予定時間を10分程オーバーしてしまったの
で、運転手さんから「昼食時間10分削減の刑」を言い渡されてしまったオッサンたち。
昼食は仕方なく近くの大衆的なピッツェリア(ピザ屋)に入りました。日本で言うと、
国道沿いのありふれたローカルなお店という感じですが、そこはさすがイタリア。ピッ
ツァは本格的で非常に美味しかったです。しかし急いでいたので写真を撮り忘れました。
さて次の目的地は、鉄道も通らないシチリア内陸部の田舎町ピアッツァ・アルメリー
ナの郊外にある古代ローマ時代の有力者の別荘と言われる遺跡です。シチリアの主要都
市のどこからも離れていてとても行きにくい場所にあるため、個人旅行で行くのは非常
に困難で、訪問するには丸一日必要なほど効率の悪い観光地なのですが、オッサンたち
はチャーターした車でアグリジェントからこの「ヴィッラ・ロマーナ・デル・カザレ」
と呼ばれる遺跡の入口まで直行です。これは本当に効率的で便利です。
オッサンたちを乗せた車はアグリジェントからしばらくシチリアの南部の海岸に近い
所を走ります。このあたりまでは肥沃な土地もあるようで、食用ブドウと思しき作物を
育てる畑や温室などが連なっていましたが、そこからシチリアの内陸部に入ると、赤茶
けた乾いた大地が続き、人家も木々もまばらな荒涼とした景色が広がります。けだるい
夏の午後、なにもない乾いた大地に灼熱の太陽が照り付けています。しかし、オッサン
たちを乗せたベンツは冷房が効いていて快適です。なんだか申し訳ない気分・・・
一時間半ほど走って、ピアッツァ・アルメリーナと書かれた行先表示板が見えてくる
と、だんだん緑が増えてきて人里らしい雰囲気になります。(と妻の日記に書いてある)
遺跡は町から5Kmほど離れた場所にあり、夏の観光シーズンには町の中心部から一日
数便のバスが出ているのですが、欧米の観光客はこの炎天下の下をみんな歩いています。
男女ともに半袖というかタンクトップに短パンというすごい恰好で、1リットルサイズ
の水を手に持ち、大きなバックパックを背負って歩いている欧米の若い男女をたくさん
見かけました。すごい体力(と気力)だなと思いました。その横をオッサンたちの乗る
ベンツが通り過ぎると、なんだか痛い視線を感じました。(気のせいや。by妻)
そして、目の前に忽然と奇妙な建物が姿を現しました。
剝き出しの廃墟のような遺跡の向こうに、温室のような建物が見えます。どうやら、
あそこが目指す「カザーレの別荘」と呼ばれる古代ローマ時代の遺跡のようです。
ここは推定ですが紀元3世紀から4世紀、古代ローマ帝国末期(要は衰退期)に建て
られたローマ貴族(元老院議員)の別荘の跡らしいのですが、その規模と床面に施され
た豪壮なモザイク画のすばらしさゆえに、皇帝に近い大貴族の豪邸だったと考えられて
います。この時代は既に首都ローマではキリスト教勢力(ローマ司教を中心とする教会)
が力をつけ、実質的にローマ帝国を乗っ取りつつある時代だったと言われています。
塩野七生(しおのななみ)先生に言わせれば、ローマ帝国衰亡の一因は、キリスト教の
勢力が支配者(皇帝)と結託して社会を支配したことで、古代ローマを発展させる原動
力であった社会の流動性や活動力が削がれ、度重なる蛮族の侵攻に対抗できる戦力と気
概をローマ人から失わせたことにある、ということです。オッサンもその可能性は高い
と思っております。このカザーレの別荘の持ち主も、首都ローマでの「キリスト教以外
の信仰は認めず、古代ローマ由来の信仰は邪教」とする不寛容な社会に嫌気が差して、
首都を遠く離れたシチリア内陸部のこの地に建てた自分の別荘の中だけは、当時の首都
では大っぴらにすることを憚られた、かつての古代ローマ社会の再現をしようとしたの
ではないかということです。断定はできませんが、その可能性は高いのでしょう。
ということで、首都ローマや(ヴェスヴィオ山の噴火で埋没したポンペイを除いて)
イタリア半島ではほぼ失われてしまった古代ローマ文化の精髄とも呼べる貴重な芸術品
が、このシチリアの片田舎に残されることになったのです。
(どうでもえぇけど能書きがめっちゃ長くてイライラするわ、早うしてんか。by妻)
はい、では遺跡を見学します。しかしこの遺跡はローマ帝国滅亡後の混乱や、その後
に起きた地震や土砂災害のために廃墟となって土に埋もれ、1927年に発掘が開始された
ということで、建物の完全な形では残っていません。床面のモザイクを保護するためか
透明なアクリル板で一部の屋根が覆われています。つまり、温室なのです。下の写真の
妻は、見学を終えて「めっちゃ暑かったわぁ~」と言っているところです。(苦笑)
この暑さの中で、直射日光がまともに入って来る空間に入りますので、汗ダラダラに
なるかと思いきや、湿度が低いので汗はそれほど出ませんでした。しかし、ムシムシと
する暑さで頭がクラクラしてきました。内部は冷房などありませんので、真夏にここを
観光する場合は、体調が万全でなければ耐えられないと思います。
遺跡全体はかなり大きいのですが、野ざらしになっていたりまだ修復中の部分もある
ので、見学できるのはアクリルの屋根で覆われた主要部分だけになります。
ちなみに建物の総面積は3500㎡。室数60室以上と言われています。かなりの規模です
ね。さて、ではさっそくモザイク御殿内部の見学です。
うわ、いきなり出てきました。1600年以上は経過しているはずですが、モザイク画と
いうのは彩色ガラスや石でできているのでかなり色彩がちゃんと判別できるくらいには
残っています。この絵柄は、おそらくここの当主の妻が侍女たちに導かれて入浴の準備
をしているところです。キリスト教は人前で肌をさらすことを良しとせず、キリスト教
の支配する首都ローマでは、古代ローマではなくてはならい余暇であった入浴の習慣が
廃れていたはずです。ここシチリアの別荘では、古き良き時代?の風俗がきちんと残さ
れていたのですね。当然、この別荘にも浴場が備わっていました。
そして古代ローマの上流階級で流行っていた娯楽のひとつに、狩りがあります。これ
もキリスト教全盛期には野蛮な風習として忌み嫌われてしまいました。カザレの別荘に
は、この下にあるような生き生きとした狩りの場面を描写したモザイク画が、いくつか
残されています。いろいろな動物たちも登場していて楽しいです。
獰猛なイノシシに襲われてケガをする人も描かれていて、なかなか凝っています。
動物好きな妻は、こんな写真 ↓ も撮影していました。
そしてもう一つ特徴的なのは、古代ギリシア・ローマ神話や、伝説を描いたモザイク
が多いことです。これももちろんキリスト教以外が邪教とされてしまった首都ローマで
は、もはや日の目を見ることがなくなってしまった題材だったはずです。
目を惹いたのは、古代ギリシアの英雄オデュッセウスの物語(ホーメーロース原作)
のシーンです。この絵 ↓ は三つ目の怪物ポリュペモス(またはキュクロプス)に酒を
飲ませて酔いつぶし、ピンチを脱出するという逸話を描いたものですね。でもバンソウ
コウをべたっと貼ったみたいな修復をしている途中だったのが残念。
悔しいので購入した絵葉書のきれいな写真を掲載いたします。うわ、ポリュペモス
さん、羊の腹を掻っ捌いて食べていたのですね、野蛮ですねぇ。
勇敢で機知に富んでいたというオデュッセウスさん、女性にもモテモテだったらしく、
至る所で浮名を流します。某国の王女様も彼のとりこになってしまってこんなことを!
こちらも絵葉書のきれいな絵を掲載しておきます。
これも絶対キリスト教会からはお許しが出ない題材ですね・・・でも現在はこの絵は
とても人気があり、いろいろなデザインとして使われています。たとえば・・・
やっぱりワインか・・・(by妻)
でもこれ、どっちかというとオデュッセウスより王女様の方が積極的に見えるけど
気のせいかなぁ・・・(どうでもよろしい。by妻)
そういえばオデュッセウス物語では、トロイ戦争が終わった後で10年間あちこちを
放浪して(遊んで)、ついに故郷イタケに帰る時、家で待つ妻に言い訳をするために
この冒険物語を創作した・・・ということになっているのではなかったかな・・・
(はしご酒して遅くなった言い訳を考えているオッサンも似たようなもんやな。by妻)
神話ものっぽい題材をもう一つ。こちらも写真はピンボケしてしまったので絵葉書
からの写真です。直射日光が入って来るので写真がきれいに撮れなかったのが残念。
アクリル板ではなくてちゃんとした屋根を付けて照明と冷房を入れてほしい・・・
しかしこの題材はなんだろう?竪琴を弾いているイケメンはアポロン神のようですが
背景は海だから違うよなぁ、海神ポセイドン(ローマ名ネプチューン)は髭面のオッサ
ンだから違うしなぁ・・・両横の女神様?ニンフ様?は上半身裸ですがな・・・これも
絶対にキリスト教会はNG。要は大っぴらにできない禁止出版物?を邸宅の中に飾って
いたということになりますね・・・
まだまだモザイク画はいっぱいあります。すごいのはコレ。アフリカの猛獣と戦う
剣闘士など、円形闘技場での催し物が描かれています。もちろんこれもキリスト教会
は認めていませんね。(円形闘技場で初期の宣教師が殺害されたという話もあります
からね、こういう残酷な催し物は禁止されたみたいです。)
シチリアはアフリカ大陸に近く、当時のカルタゴを中心とするアフリカ北部(現在
のチュニジア)はイタリア半島と同じように繁栄していたので、現在でこそ辺鄙な片
田舎になっているこの場所も、当時はローマ社会の中心部に位置していました。
写真を撮り損ねたので絵葉書の写真を掲載しますが、有名な四頭立ての馬に乗った
競走(塩野七生先生いわく、現代で言うとF1レースみたいなもの)のモザイク画も
ありました。皇帝や有力者たちが、市民を喜ばせて人気取りをするために提供した娯楽
だったと言われています。もちろんこれも、キリスト教のもとでは下火になります。
ちなみにこのモザイクはアップにしていますが、これは大広間のだだっ広い床面いっ
ぱいに描かれたモザイク画の一部です。壮観でした。当時の人も、驚いたことでしょう。
そして最後はもっとも有名な作品。これは本当にびっくりします。知ってはいました
が、本当にこんなものが紀元3~4世紀の古代ローマで作られていたのか・・・これが
当時の流行なのか、と・・・
なんじゃこれ! ビキニスタイルの美女たちが、ボール遊びや運動をしていますよ。
これも絶対にキリスト教会は認めませんね。(しつこいな、オッサン。by妻)
ちなみに妻の日記には、「修復用の機材がその辺におきっぱだった。せめて片づけて、
って感じ・・・」と書かれていました。まぁ確かにな・・・
こんなに保存状態が良く、しかも多彩な古代ローマの文化・風俗を知ることができる
まとまった作品を見ることができるのは世界でもここだけではないかと思われます。
それが、シチリア内陸部の辺鄙な片田舎の町から5Kmも離れた場所まで多くの人たちが
訪れる理由なのです。当然、世界遺産にも指定されています。
こちらも絵葉書がありましたので参考までに。あれ?鉄アレイみたいなものを持って
いる女性もいますね。それと、古代ローマはもともとラテン系民族なので褐色の髪の毛
の方が多かったようですが、この頃(紀元3~4世紀)になると北方系(ゲルマン系)
の方々も一部が同化してローマ人となっていったと聞きます。だんだん金髪碧眼のお姉
ちゃんが増えていったのがこのモザイク画を見てもうかがえますね。(なんかオッサン
がそう書くとヤラシイな・・・by妻)
素晴らしい芸術品(でも当時はただの室内装飾)でしたが、暑いので見学は約30分が
限度です。密閉ではなく窓は空いていましたが、直射日光が入って来るのでキツイ。
これ、モザイク画も傷みが早くなると思うので、やっぱりちゃんとした屋根を付けた方
が良いのではと思います。
しかしここは一般の博物館ではなく、本当にオリジナルの邸宅が、当時あった場所に
残っていて、内部のモザイク画も当時あったままに見学できるというのが素晴らしい。
修復作業や維持管理は大変なことだと思いますが、後世に残し伝えていくべき遺産では
ないかと思います。
見学を終えて、感動はしましたがそれ以上にぐったりした妻とオッサンなのですが、
再び冷房の効いたベンツに戻ってきて、息を吹き返しました。助かりました・・・
この後は一路シチリア島きってのリゾート地タオルミーナに向かうのですが、その前
にたぶん二度と訪れることはないであろう?ピアッツァ・アルメリーナの町を見渡せる
展望台?に立ち寄ってもらいました。
シチリア島だけではなくイタリアはキリスト教(カトリック)が生活に根付いていて
どんな小さな町でも教会があり、そこを中心に町が形成されているのがわかります。
そして古くからある地方の小さな町は、外敵の侵入に備えて不便な丘の上にあり、狭い
場所に家屋が密集していることが多いです。決して豊かとはいえないシチリア内陸部の
町ですが、古代ローマ時代から遠く時を隔てても、この地で力強く生活している方々が
いるのだと思うとすごいことですね・・・(余計なお世話やで。by妻)
街の中心部の全景の写真をネットから借用しました。
これまでパレルモ(12~13世紀のアラブ・ノルマン様式、18世紀のバロック様式)、
アグリジェント(紀元前5~6世紀の古代ギリシア遺跡)、カザーレの別荘(3~4世紀の
古代ローマ遺跡)と、その地でなければたぶん見られない世界でも稀な文化遺産を見学
してきましたが、この後は妻が楽しみにしていた海辺のリゾート地です。
次回からしばらくタオルミーナ編が続くことになるかと思います。(いつ始まって、
いつ終わるかわからんちゅうこっちゃな・・・by妻)
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