Bonne(ボンヌ)のブログ

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2024年GW:スペイン・フランスの旅 ㊲ サン=セバスチャンのバスク博物館を見学・・・

  今日はバスク地方・サン=セバスチャン旅行記の続きです。
  入館時刻締め切りの午後7時ギリギリに、バスク博物館に滑り込みました。ビルバオの
 バスク博物館を見る時間がありませんでしたので、サン=セバスチャンでなんとかバスク
 の歴史や文化に触れることができればと思ってまいりました。そのため、妻が行きたかっ
 た水族館は諦めました。すまん・・・(私は水族館の方が良かったけど、オッサンがどう
 しても博物館に行きたいんならしゃあないわい・・・by妻)
  バスク博物館は、かつてのサン=テルモ修道院の建物を利用していますので、建物自体
 も見どころの一つになっています。

  入館すると、まず大きな回廊に出ます。これは修道院の中庭がそのまま残されている
 感じです。それほど広くはありませんが、静かで落ち着いた感じの回廊です。

  少しですが、ビデオ動画も撮影していましたので、多少は雰囲気をお伝えできるかな。
 (でも写真とほとんど変わらないアングルやで。あんまりよぅわからんで。by妻)

2024年4月30日 サン=セバスチャン サン=テルモ修道院


  この回廊から階段で二階に登りますと博物館の展示があります。スペインの中でも、
 いや欧州の中でも異彩を放つ独特の歴史と文化・社会を育んできたバスク地方を知る
 ことができると思うと楽しみです。
  バスク地方とはバスク人の住む土地なのですが、大西洋とピレネー山脈に挟まれた
 スペイン・フランス国境に跨る地方です。ここに住むバスク人は、ヨーロッパの主要
 言語とは全く異なるバスク語(彼らはエウスカラといいます)を話し、民族系統的に
 古代からイベリア半島に住んでいた民族の末裔ではないかと言われています。バスク
 の方々にはRHマイナスの血液型の人がプラスの方よりも多いなど、ちょっと変わった
 特徴があるようです。
  歴史に残っている限りでは、ケルト人(バスク地方を通り過ぎてスペイン北西部の
 ガリシア地方に最終的に定住)や古代ローマ人、フランク人(ゲルマン系)やアラブ
 人などがバスクにやって来ますが、バスクを完全に征服することはできず、バスクの
 人たちはこれら征服者たちに時には抗い、時には共存して独自の民俗的アイデンティ
 ティーを守り続けてきたということです。スペイン王国時代も「フエロ」という政治・
 経済的な自治権を有していて、スペイン王国への納税義務や兵役義務もなかったとの
 ことです。なんだかすごいですね、バスク人。
  しかし、近代になってスペインがカスティーリャ(マドリード政府)を中心とした
 政治経済的統合を図ろうとしたため、バスク地方と中央政府の争いが始まりました。
  
  展示の中で、オッサンが注目したのはこのポスターでした。

    

  1839年、社会改革を唱える勢力が実権を握ったスペイン中央政府により、バスク地方
 が享受していた特権(フエロ)が大幅に縮小され、バスクの人々はスペイン政府に納税
 し、スペイン軍への兵役義務を負う事になりました。もちろん政治的自由は大幅に制限
 を受けたのです。バスクの人にとっては1839年は「自由を失った年」だったのです。
  そしてスペイン王国が滅亡し、1931年に第二共和制が発足すると、バスクの人たちは

 再び自治を要求したのですが、スペイン新政府により却下されました。これは、その時

 の宣伝用のポスターなのではないかと思います。しかし一度失った権利を取り戻すのは

 非常に難しいことでした。

  ちなみにオッサン、この「フエロ」というのは古代ローマが同盟国(実質的には属国)
 を緩やかに支配するやり方に似ていると思いました。統治のコストとリスクを抑える

 には優れた手法だと思います。


  さらにその後、スペイン政府は独裁者フランシスコ・フランコ将軍に牛耳られること
 になりますが、独裁政権ですからバスクの人々の自治なんて認めるはずがありません。
 それどころか、反抗するバスクの人たちを同盟相手であるドイツ軍に空爆させたのです。
 そうです、その場所がバスク地方最大の街ビルバオ郊外にあるゲルニカです。この町は
 バスク地方の自治権の象徴である「フエロ」を宣言する街だったのです。(かつてスペ
 イン王は、この町の樫の樹の下で「フエロ」を順守することを誓ったのだそうです。)
  つまりフランコ軍事独裁政権は、バスクの人々の権利を徹底的に踏みにじる意図を、
 これ以上ない酷い仕打ちで示したのです。バスクの人にとっては1931年よりも、1937
 年の方がもっと悲惨な出来事となってしまいました。   

  しかし、ここからバスク人のスペインからの完全自治・独立を目指す政治活動が活発
 になりました。一時は武装闘争にも発展し、ETA(バスク祖国と自由)という武装組織
 によるテロ活動によりスペイン社会を混乱させることになってしまいました。
  1975年のフランコの死後、1979年にようやくバスク自治州が発足し、少しずつ事態
 は沈静化しました。バスクの住民も当然テロには反対でしたからね。
  そして、この記念碑的芸術作品もスペインに落ち着くことになりました。でもどうせ
 ならマドリードのソフィア王妃センターではなく、ビルバオのグッゲンハイム美術館に
 置けばいいのにと思ったオッサン。いや、それは政治的には難しい。現在もバスク自治
 政府とスペイン中央政府は(カタルーニャほどではないにしろ)緊張関係にあるようで
 すから、バスクの人々をさらに刺激してはまずいとでも考えているのかもしれない。


  ・・・とバスクの歴史を振り返るだけで、結構長くなってしまいました。(アホ)
 肝腎の展示品のご紹介が全くできておらず、失礼いたしました。(ホンマや。by妻)


  それでは展示品を見て回ります。20世紀前半頃から時代を遡っていく感じです。
  これはバスクの工芸品の展示かな。バスク地方はスペインの中では鉱工業がさかん 

 だったので、鉄砲などの武器も生産していたようです。あ、バスク帽もありますね。

  スペイン(カスティーリャ)語とバスク語で解説がありますが、どっちにしても読め
 ん。😆(ポケトークは書いてある言葉は翻訳できんからの~ by妻) 
  ちなみに現代のバスク語話者はフランスのバスク地方を含めて70万人ほど、大半が
 スペイン語かフランス語とのバイリンガルだそうです。カタルーニャと一緒ですね。


  お次は大きなトランクと鉄道駅の写真。バスク地方は19世紀末から20世紀前半には
 製鉄業や造船業などが発展し、スペイン中から多くの労働者がやってきたそうです。
 そのため、バスク人の独自性が損なわれるという危機感を抱いたのかもしれません。

  19世紀頃のバスクの人たちの着ていた衣服や装飾品が展示されていました。右側の
 女性用の服は民俗衣装のような感じかな。

  わ、これはお祭りの時の衣装でしょうか。ちょっと楽しいですね。太鼓や笛などの
 楽器も展示されていました。

 ここでもちょっとだけ動画を撮影していました。(撮影はOKでした。)

2024年4月30日 サン=セバスチャン バスク博物館


  お次は娯楽用具かな? ルーレットみたいなものでしょうか・・・盤のまわりに馬術
 のような絵が描かれているのが面白いです。


  あ、これは有名なバスクのスポーツですね。ぺロタ・バスカという球技です。硬い
 球を湾曲した籠のようなもので打つ?投げる、のかな?ホンマに変わっているわ・・・ 

     

  でも1900年にはパリオリンピックの正式競技に採用されたことがあるようですし、今
 も世界選手権があるらしいです。ま、フランスとスペイン、それにバスク人の移民が多い
 アルゼンチンとメキシコがメダルを独占しているみたいですが・・・
  それにしても昔の選手はみんなバスク帽を被っているな・・・


  バスクではサッカー以外の一般スポーツは人気がなく、このぺロタや伝統的なスポーツ
 が盛んだそうです。テレビで見た巨石を運ぶ競技や、丸太を斧で切断する競技とか、大変
 な重労働に思えますが、楽しいんだろうか・・・?(ま、それが伝統やから。by妻)


  ちょっと長くなってしまいましたので、いったんここで小休止。続きは次回です。
 (前半の歴史ウンチク話が長すぎたからやで・・・by妻)