Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

水戸藩校「弘道館」(昨年の話)

  もう今日で2月も終わりですね。
  書きかけていた昨年2月の水戸日帰りの記事を終わらせたいと思います。


  偕楽園を出て、またお昼ごはん抜きで電車に乗って5分程で水戸駅へ。 

  駅前のペデストリアンデッキには梅の木が植えてありましたが、まだ咲いていません。
 そして、目を惹いたのはやはりこの ↓ お方。

    

  助さん、格さんを引き連れた、第二代水戸藩主で副将軍も務めた水戸光圀公の像が
 ありました。「ええい、この紋所が目に入らぬか、控えおろう~!」、のシーンだと
 思われます。そういえばうちの妻は時代劇の水戸黄門を良くCATVで見ていたようです。
 勧善懲悪モノが好きだったようです。


  さて、先を急ぎます。水戸駅から徒歩で10分程のところに、水戸藩校であった弘道館
 があります。今でも観光名所のひとつで、やはりこの時期は梅が見られるそうです。
 さっそく行ってみました。館を囲む塀の向こうに梅が咲いているのが見えました。

    

  重厚な正門は国指定重要文化財となっており、ここからは入れません。

  番所近くの通用門から中に入ります。メインの建物「正庁」です。こちらも重要文化財 
 となっています。弘道館は、第9代藩主徳川斉昭の命で作られた藩校で、文武両道を目的
 に藩士の子弟を教育する場として設立されました。1857年開館ということで幕末ですね。
 教育が重要という事に気づいたのはさすが名君だけど、ちょっと遅かったのかな。調べて
 みたら長州藩の藩校「明倫館」はもう少し前、吉田松陰の叔父が始めた私塾「松下村塾」 
 は1842年の開校のようです。そして1857年とは、吉田松陰が松下村塾の塾長を引き継い
 だ年だそうです。幕末の風雲急を告げる頃、水戸藩でも改革が進んでいたのですね。
  しかし明治維新後、政府の「学制」制度によって弘文館は閉鎖させられ、僅か15年と
 いう短命でその使命を終えました。まぁ世の中が変わって、教える内容が変わったから
 仕方がないのかな。この「正庁」とこれに繋がる「至善堂」は第二次大戦の戦火を免れ、
 国指定の重要文化財となっています。

  内部は藩校らしく、質実剛健といった感じです。こちらは来館者の控えの間です。
 床の間に掲げられた「尊攘」の掛け軸が、幕末時代を感じさせますね。

  そして下の写真、「対試場」は武術の試験場(屋外)です。藩主は正庁の正席の間から 
   試験の様子をご覧になったそうです。そんな遠くから見て分かるのかな?

  ↓ は対試場から見た正庁の全景です。

  この正庁の奥に「至善堂(しぜんどう)」があります。こちらは藩主の休憩所兼学問
 所です。斉昭が四書のひとつ「大学」の一節からとって命名したもので、「人間は最高
 善に達し、かつその状態を維持することを理想とすべきである」という意味がこめられ
 ているそうす。いや、それはなかなか難しいと思うけどな・・・
  下の写真は、4つある広間のうち「御座の間」です。斉昭の息子(七男)で徳川最後
 の将軍慶喜もここで学び、大政奉還後はここに移り蟄居していたそうです。
 ほう、ここに慶喜公がおられたのですか。(その後駿府=静岡に行っちゃうんだよね?)

 

 
  館内を見学した後は、構内にある梅を観に行きます。やはりまだちょっと早かったよう
 で、二分から三分咲きといった感じでした。町の中にありますが、わりと敷地面積が広い
 ので、ちょっとした梅園のようです。

     

  見ごろは3月上旬あたりでしょうかね?
  観光客もちらほらといった感じで、ゆっくり見て回ることができました。
  水戸は東京から特急列車で1時間程度の場所ですので、気軽に行く事ができますね。
  
  この日はこの後、水戸線というローカル線に乗って栃木県の小山まで行きました。
 なんでわざわざそんなことすんのよ、このオッサンは?(by妻)
  来た時と同じ道を戻るのがあまり好きではない私、遠回りでしたが北関東ののどかな
 田園地帯を走る電車に乗るのもいいかなと。缶ビールを買って電車に乗り込みます。
 (これと言った車窓風景もなく、普通の通勤電車みたいな感じでしたので写真なし。)
 のんびりと一時間半ほどローカル電車に揺られて小山駅に到着。ここからは東北本線の
 快速電車(湘南新宿ライン直通)で一気に渋谷まで出ることができます。便利になった
 ものです。結局、晩御飯は渋谷で適当に済ませて帰宅。妻が居たらこんないい加減な事
 は許されないですね、どこかでお昼を食べないと。
 まぁオッサン一人だと、どうにでもなるわ。(そんなんばっかりではあかんで!by妻)