Bonne(ボンヌ)のブログ

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2021年GW 東北の旅(3泊4日)➁極楽浄土の庭園

  岩手県・平泉の毛越寺(もうつうじ)を見学します。
  ここは平安時代の僧、慈覚大師円仁が開山し、奥州藤原氏二代基衡(もとひら)から
 三代秀衡(ひでひら)の時代(西暦1100年頃)に多くの伽藍が造営されました。往時は
 堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。
  奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失しましたが、大泉が池を
 中心とする壮大な浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、
 国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。

     


  入口から入ると左手に宝物館がありましたので、先に所蔵品を見学しました。この寺
 の遺構から出土した遺品や、お寺に伝わる仏像や工芸品が展示されていました。さっと
 見ただけで、境内の見学に参ります。
  真っ先に目につくのが、松尾芭蕉の有名な句を彫り込んだ石碑です。そうです、あの


   「夏草や つはものどもが 夢のあと」


  という、ノスタルジーと悠久の時の流れを感じさせる、誰でも知っている名句ですね。
  どうでもいいけど、なぜパンダが・・・(緊張感が失われるで、アホやな。by妻) 

 

  ちなみに、近くには英語訳の石碑もありました。
  意味をなるべく正確に伝えるようにすると仕方がないのですが、元の言葉の余韻という
 か、味わいを再現するのは難しくなりますね。(サマーグラスって言われてもなぁ・・)

 
  松尾芭蕉は1689年にこの地を訪れて、悲運の武将源義経と武蔵坊弁慶ら家臣が無念の
 最期を遂げたことに思いを馳せ、この句を詠んだと言われています。おそらくこの句は
 世界的にも有名になっていると思われます。直訳はともかく、この情景と詠み手の心情
 は、古今東西すべての国・人に共感を呼び起こすのではないかと思いました。
  そうなのです、平泉は普通の日本人が感情移入してしまう歴史的ヒーロー源義経さん
 の終焉の地であり、彼を最後まで守り通した忠義の人・武蔵坊弁慶の逸話を想起させる
 遺跡(ホンモノかどうかは怪しい)が残っています。歴史愛好家(歴女も?)には人気
 のスポットだと思われます。

  話は逸れますが、古今東西、圧倒的な実力の持ち主でありながら、ライヴァルの奸計

 ?に陥れられて志半ばで命を落とした英雄には事欠きません。中国では三国志の項羽、

 西洋ではイングランドのリチャード獅子心王、古代ローマのユリウス・カエサル、日本

 では織田信長さんもそうですかね。皆さん、歴史のなかでは不滅の人気を保っています。

 歴史に「たら・れば」はご法度ですが、もし彼らが長命を全うし彼らの支配する世の中

 になっていたならば、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。

 (彼らが何かとてつもないことをしたかもしれないという意味と、彼らの代わりにその 

 後の世の中を上手く動かしていった人が、その機会を逸したかもという二重の意味で。

 もし項羽が生きていたら劉備の漢帝国はなかったかもしれないし、信長の天下が続いて

 いたら江戸時代はなかったかもしれないし義経を仕留められなかったら源頼朝の鎌倉

 幕府は早期に瓦解していたかもしれませんしね。)


  ・・・いい加減に毛越寺の見学にもどったらどうや?(by妻)

  あ、スミマセン、脱線し過ぎました。歴史の妄想はこのくらいにして、先に参ります。


  毛越寺の本堂は、平成元年に再建された新しいものですので歴史的建造物ではありま

 せんが、このお寺の大事なご本尊、平安時代の薬師如来像と日光・月光の菩薩像が安置

 されています。

 
  さぁ、この後は広い境内の大部分を占める庭園、大泉が池です。この庭園が毛越寺の
 中心と言っても過言ではありません。
  この地を治めた奥州藤原氏は、この世の楽園、極楽浄土をイメージしてこの庭園を
 つくらせたといいます。当時の建物(伽藍)はもう残っていませんが、この大泉が池を
 中心とした庭園は当時の姿を現代にも伝えていると言われています。
 


  ここは、日本最古の作庭書「作庭記」の思想や技法を今に伝える貴重な庭園として、
 800有余年を経た現在も、四囲の樹木の景観と相まって、なお変わらぬ美しさを見せて
 います。(解説書より。ズルすんな、自分の言葉で書け!by妻)


  反対側から見るとこんな感じです。吸い込まれるような清々しい景観ですね。
  中央に見えるのが「池中立石(ちちゅうたていし)」という特徴ある石組です。

 アップにするとこんな感じ ↓ です。水と石、木の絶妙な組み合わせが心地よいですね。


  平安時代の人々は、戦乱や天候不順による飢饉などによる悲惨な世の中を憂いつつ、
 仏の教えを信じていれば死後には極楽浄土に行けると考えていたのだそうです。(中世
 ヨーロッパと似ていますね。それだけひどい世の中だったのでしょう。)
  しかし支配者クラスになると、自分の生きている世界に極楽浄土(のイメージ?)を
 作りたいという気持ちになるようです。まぁ、そのお蔭でこのようなスバラシイ庭園を
 鑑賞することができますから、藤原秀衡さん?、どうも有難うございます。


  この平安時代の極楽浄土の全体像はこんな感じ ↓ です。大泉が池のまわりをゆっくり
 散策して巡るルートが拝観コースになっていました。 
  この浄土庭園は仏堂と苑池とが一体として配された庭園で、毛越寺では北に塔山と呼
 ばれる小山を背景として、広々とした美しい苑池が展開します。大泉が池は浄水をたた
 え、その周辺には、州浜、荒磯風の水分け、浪返しにあたる立石、枯山水風の築山など
 といった石組みや、池に水を引き入れる遣水など、自然の景観が表されています。


  池を正面から見据える場所には、かつて「南大門」が建っていて、池の真ん中の小島
 まで橋が渡されていたそうです。今は門も橋もなくなっています。

      


  しばし極楽浄土の庭園を鑑賞した後、この大泉が池の周りのお堂や遺跡を見学します。
  長くなりましたので、続きは次回です。