Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

我々は何を守るのか?

  あってはならないことが起きてしまった、21世紀の、この日本で。
  無差別殺人も許せないが、政治家を暗殺しようとする輩はそれ以上に許せない。それ
 では政治は暴力に屈するか、邪悪な意図を持った何者かに怯えてしまうことになる。


  紀元前44年3月15日、ガイウス・ユリウス・カエサルは紳士協定を結んだ元老院
 議員たちの裏切りに遭い、ローマ社会を変えようとした稀代の傑物は志半ばで斃れた。
 (幸い、その遺志を継いだアウグストゥスによって、カエサルが目指した新しいローマ
 はその後500年続きます。)
  1963年11月22日には、J・F・Kことケネディ大統領がダラスで遊説中に凶弾
 に倒れた。「政治があなた方に何をしてくれるのかではなく、あなた方がこの国に対し
 て何ができるのかを考えてみてください」と言った理想主義者の米国大統領も、彼がや
 りたかった政治を続けることができなかった・・・
  そのほかにも、世の為政者が浅薄な愚か者に殺められた例は枚挙に暇がない。


  いずれの暗殺者たちも、世界になんの貢献もできなかった者たちだ。いや、自分の身
 の上のことさえ、自分でなんとかすることができなかった未熟者といってもよい。そこ
 に、なんとも言いようのない空しさを感じる・・・ 
  
  政治的背景があったのかは知らない。おそらく、なかったように思われるが、明後日の
 参議院議員選挙に影響を及ぼさないはずがない。その意味で犯人は、少なくとも高度な政
 治的意図はなかったと思われる。(このようなことが起きると、どのような結果を招くか
 がわかる知能があれば、政治的意図を持った人間がこのようなことはしない。)


  世界は暴力が支配し始めている。自由民主主義は、暴力によって支配する独裁政権の前
 に不利な戦いを強いられている。誤解を恐れずに言えば、「足を引っ張る者」の有無が、
 このような不愉快な状況を生み出している。
  
  だから、今この瞬間が大切だ。我々日本人は、何を守るべきなのか。
 現代日本では、「板垣死すとも自由は死せず」の心意気を持った政治家ばかりではない。
 今回の惨劇によって、自分たちに不都合なことも認める寛容さが失われてはいけない。
 ただし、「足を引っ張る者」たちにもそれ相応の覚悟が必要だ。為政者は「命を賭して」
 政治を行っている(その政策の良し悪しにかかわらず)。同じ覚悟を持てとは言わない
 が、そのことを弁(わきま)えて話すべきであろう。


  我々は何を守るべきなのか・・・
  フランスは、歪んだイスラム教徒による同時多発テロを乗り越えて、「表現の自由」
 を断固として守ると言った。(私は同意しかねるが・・・フランス人がフランスの将来
 を決めることには文句は言えない。)
  米国人は、度重なる凄惨な銃犯罪が起きても、「銃を持つ自由=建国の父たちの生き
 ざま」をかたくなに守ると言った。(これまた私は同意しかねるが・・・米国人が米国
 の将来を決めることには文句は言えない。)


  ユリウス・カエサルの次の言葉は、時代を超えて語りかける。古今東西あらゆる社会
 において、人間の弱さ、人間の愚かさが克服されずにいることを、暴露しているのかも
 しれない・・・


  「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと
 欲する現実しか見ていない。」


  「わたしが自由にした人々が再びわたしに剣を向けることがあったとしても、そのよ
 うなことには心を煩わせたくない。何ものにもましてわたしが自らに課していることは、  
 自らの考えに忠実に生きることである。だから、ほかの人々もそうであって当然と思っ
 ている」(塩野七生先生。新潮文庫様。無断掲載をお許しください。)


  残念ながら「自らの考えに忠実に生きる」ことは同じでも、人間としての品格が違え
 ばプロセスも結果も異なってしまうのだが、カエサルは「それでも良い」と考えていた
 のだろう。ユリウス・カエサルが人類史上もっとも偉大な人物だと考える私は、まさに
 この言葉に目からうろこが落ちた。有言実行をこの人ほど徹底した人はいない。しかし
 その結果、「私が自由にした人々に再び剣を向けられ」て暗殺されてしまうのだが。
  カエサルは死の間際にも、そのことを後悔していなかった・・・と思いたい。


  ユリウス・カエサル様。J・F・ケネディ様。
  安倍晋三さんをねぎらってあげてください。彼は最後まで、「自らの考えに忠実に」
 生き抜きました・・・ 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。