Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

終戦記念日に思うこと・・・長文でスミマセン。

  本日の記事は写真なしです。偉そうな駄文ばかりなので、読んで気分を害する方も
 いらっしゃると思いますので、この手の話が苦手な方はスルーでお願いいたします。


  明日は終戦記念日ですね。今年は世界が物騒になり、戦争というものを嫌でも意識せ
 ざるを得ない状況です。世界には強盗のような国家が現実に存在しますが、長い人類の
 歴史の中では(残念ながら)普通のことでしょうから、平和な世界を築くにあたっては、
 それを前提に考えていかなければならないでしょう。
  現代でも、「自分が生産するよりも、人のものを奪ったほうが手っ取り早い」という
 考えの人間は、文明国家を標榜する国々にも数多くいます。実際に強盗を働く悪党や、
 詐欺によって金品を巻き上げようとする狡猾な犯罪者は枚挙に暇がありません。しかし
 個人のレベルでは即犯罪とされることも、国家ぐるみで「戦争」いや「特殊軍事作戦」
 の名のもとに行えばまかり通ってしまうというだけです。
  強盗国家自体も、元をただせば「自分たちもひどい目にあわされた」というトラウマ
 があるようです。しかし1945年8月15日以降も、この強盗国家が我が国(この時点では
 C国の方からすれば我々も強盗だったでしょう)の避難民を意味もなく虐殺したことは
 忘れるわけにはいかないでしょう。いや、意味もなくではなく、あったかもしれません。
 「この土地はこれから俺たちのものだ。お前たちは消えろ。」という意思表示だったと
 思われます。今ウクライナで起きていることは、本質的にこれと同じでしょう。


  実際、NATOの庇護下にある(と信じている)バルト三国は明日は我が身と心得て、
 正面切って強盗国家への対策を講じています。ラトビアは強盗国家を「テロ支援国家」
 と規定しました。(正確には「国そのものがテロ集団」なのですが、おおむね正しい
 でしょう。)エストニアは強盗国家の国民を入国禁止措置としました。強盗国家が国家
 ぐるみの犯罪を推進しているなかで、強盗国家の国民を平常時同様に扱うことはできな
 いということでしょう。強盗国家の国民の中にも、戦争に反対して投獄されてしまった
 気の毒な方もいることも承知しており、一般国民に罪はないというのはある意味で正し
 いとしても、だからといってすべてが許されるということではありません。WWⅡ時代
 の我が国やドイツ・イタリア国民もそのような扱いを受けたように、不幸にも強盗国家
 に生まれ育ってしまった以上は、個人的にそれ相応の不利益があったとしても、甘受せ
 ざるを得ないないだろうと思います。
  ただし、ちょっと気になるのは、バルト三国には少なからぬ強盗国家系の住民が存在
 することです。彼らの権利をはく奪したり迫害するようなことにつながってはいけない
 と思います。それこそ強盗国家に付け込まれる隙を作ってしまうことになりますから。


  バルト三国のこれらの毅然とした決意に対して、強盗国家側はこのように言い放ちま
 した。「お前たちが自由でいられるのも、我々が見逃してやっているからだ」、と。
 これが強盗国家の本性ならば、善隣外交なとというものはもはやあり得ません。先日、
 強盗国家の国会議員が「北海道は我々のものだ」との暴言を言い放ったとのニュース
 がありましたが、我が国に対しても、同じ視線で眺めていると思われます。ちなみに、
 北海道には米軍基地は置かれていません。強盗国家が北方領土交渉(もはや、返還する
 意思など微塵もないことは明白ですが)において、「日本全土からの米軍基地の撤収」
 を要求していたことは、実に示唆に富んでいます。「いつでも強盗国家の意思で、領土
 を奪うことは可能である」状態にしておくことが、強盗国家の目的です。「お前たちが、
 のうのうと暮らしていけるのは我々の許可を得てのことであり、その逆鱗に触れた場合
 にはウクライナのようになる」、ということが全世界のもとに明らかになりました。 


  人類の歴史は、侵略と強奪の繰り返しであり、自ら繁栄しながらも他国を侵略しな
 いという国家は稀であったと思います。それが実現する唯一の条件が「抑止力」です。
 自らが他国を侵略しないですむのは、他国から自国が脅かされないことが前提です。
  古代西洋史では、教訓が2つあります。古代とは、遠慮もなくむき出しのパワーが
 モノを言う時代、すなわち「強いものがすべてを奪って栄える」という時代でした。


  一つはペリクレス時代の古代都市国家アテネ。彼は新興国アテネの経済的な繁栄を
 維持するためには戦争抑止が必須と判断し、かつての交戦国ペルシアとの間に講和条
 約を結び、仮想敵国スパルタとの間にも休戦協定を結び、巧みに戦争を回避しました。
 もちろんアテネを中心とするデロス同盟とスパルタとの関係は微妙なままですので、
 その手綱捌きは慎重にも慎重が求められたはず。当然、休戦ですからいつでも戦争に
 なることを想定した準備も怠ってはいなかったはずです。
  しかしたぐいまれな政治的センスとノーブレス・オブリージュの精神を持ち合わせ
 た彼が権力を失うと都市国家アテネは衆愚政治に陥り、ついに覇権国家スパルタとの
 ペロポネソス戦争に突入してしまいます。軍事力で劣るアテネは消耗戦の末に敗れ、
 スパルタの軍門に降(くだ)る羽目になりました。戦争しかできない(ある意味では
 強盗都市国家の)スパルタが全ギリシアの覇権を握ってしまったことで、ギリシアの
 都市国家群の没落は決定しました。


  もうひとつはハドリアヌス帝時代の古代ローマです。古代ローマ帝国と言えば、悪
 の帝国という認識の方も多いと思われますが、いわゆる帝国主義時代の西欧列強国家
 に比べれば、はるかに穏当だったと思われます。もともとは、外敵(強盗)が攻め込
 んでくるのを事前に防ぐための防衛戦争を繰り返しているうちに歴史上まれな広範な
 領土も持つ大帝国になってしまったのですが、彼らの取った戦略は「支配した土地の
 強奪」ではなく「支配した地域のローマ化」すなわち同化政策です。かつての敵を、
 自分たちと同じ扱いにしてしまうという大胆な戦略です。これが成功したのは、支配
 される側が、「ローマに同化することのメリット」を理解したことです。強盗で生計
 を立てていた狩猟民族の蛮族も、定住して安全快適な文化的な生活を享受できるほう
 が得だと認識したのです。
  しかしこの戦略が受け入れられれば受け入れられるほど、ローマに保護してほしい
 と思う民族・国家が増えてしまいます。自動車も飛行機もない時代、首都ローマから
 2か月以上もかかる辺境の土地を維持していくのは至難の業でした。
  皇帝ハドリアヌスは、前皇帝のトラヤヌスが得たローマ帝国の最大版図をこれ以上
 広げることはと無理と判断し、専守防衛に徹することにしました。しかし、このこと
 は戦争を全くする気がないというものではありません。実際に、彼の任期20年の間は
 対外的な侵略戦争は一度も起こしていませんが、防衛のための戦争にはいつでも対処
 できるよう、辺境の軍団基地の整備や辺境地方の統治安定化のため、自ら帝国の隅々
 まで視察し、あらゆる面での防衛力(=外敵が侵略をためらう抑止力)を強化しまし
 た。その甲斐あって、帝国内部は平穏な時代が続いたということです。
  ところが、次の皇帝アントニヌス・ピウスは、ハドリアヌスが常に首都ローマを留
 守にして辺境の地の視察旅行ばかり行っていて、発言力のある首都の元老院議員たち
 から恨まれたことを痛いほど知っていたので、彼らの批判を恐れて常に首都ローマに
 居座ったまま統治を続けました。(帝国前半時代のローマ皇帝とは、我々がイメージ
 するような独裁者ではなく、「元老院とローマ市民から統治する権力を委託された者」
 だったからです。)
  その結果何が起きたか・・・辺境の地の防衛はハドリアヌス時代ほどの徹底した厳
 しさはなくなり、アントニヌス・ピウスの次の皇帝、かの有名な哲学者皇帝マルクス・
 アウレリウスの時代には辺境の地から蛮族の侵入が相次ぐことになり、ローマ帝国に
 とって最重要なドナウ川防衛線が決壊してしまいます。一度破られた防衛線は完全に
 元通りにすることは難しく、これ以後ローマ帝国は滅亡までの300年間、蛮族の侵入を
 防ぎ続けるための「戦争」を余儀なくされてしまいました。
  アントニヌス・ピウスは、その名(ピウス:慈悲深い者)の通り人格者であって、
 前皇帝ハドリアヌスのような独善的な統治ではなく、元老院議員との協議を重視して
 (でも実際には自分で決めていますが)民主的にふるまったため、歴史上においては
 評判の良い名君となっていますし、実際彼の統治時代には帝国は平和を享受していた
 ということです。しかし、塩野七生先生によれば、その平和は彼の「内政の善政」に
 よることも当然であるが、「ハドリアヌスがおぜん立てをしてくれた外敵からの防衛
 力が機能していたこと」が最大の理由ではないかとされています。
  同じような努力をアントニヌスが継続し、その政策をその後の皇帝も継承していれ
 ば・・・歴史は変わったかもしれません。


  ペリクレス、ハドリアヌスともに、歴史的に見ても実に優れた指導者であったとは
 思いますが、どちらも私生活には大いに問題があり、残念ながら民主的な統治者とは
 到底言えない人たちです。今の日本なら、国会で不倫や少年性愛のスキャンダルや、
 公私混同の罪で糾弾され、起訴されているような方々です。そんなことをしてはよく
 ないというのは当然ですが、彼らの功績は、当時は他の誰であってもできなかったで
 あろうことを、自らの強固な意志でやり遂げ、一時的ではあれ「外敵からの抑止力」を
 機能させて戦争を回避したことだと思います。
  戦争が起きて、国家の存亡や個人の生命の危機が訪れてしまえば、それ以外のことは
 もはやどうでもよくなってしまいます。「戦争をしないで済むこと」とは、武装解除を
 して平和を唱えることでは達成できません。残念ながら「抑止力を機能させること」で
 しか成し得ないのではないかと考える今日この頃です。
  課題は、「完璧な抑止力」はないということと、それがゆえに「抑止力競争には歯止
 めがかからない」ということ、「抑止力として手にした軍事力は、絶対に侵略には使わ
 れないという保証はないこと」かなと思います。最後の課題は、平和主義者の方々?が
 最も懸念することだろうと推察いたします。なかなか難しいですね・・・


  終戦記念日ということで、いろいろとアホなことを考えてしまいました。
  次回からは普通に戻ります。(ホンマけ?by妻)







 


  























 
 






(彼は一度も対外戦争を仕掛けませんでし