2025年8月:クロアチア・オーストリアの旅 ㉒ 世界遺産ドゥブロヴニク旧市街を駆け足で観光・・・その2
今日は旅行記の続きです。なかなか進まないけれども・・・
世界遺産ドゥブロヴニク旧市街の観光名所を、3時間以内で見学するというミッション
ですが、まずは2つの修道院、聖ヴラホ教会を見学して、お次はいよいよ総督宮殿です。
中世から近世にかけてのドゥブロヴニクは、イタリアの海洋都市国家ヴェネツィアを
真似た都市国家でした。ですので、まずはヴェネツィア共和国のお話から・・・

上の地図で、緑色の部分がヴェネツィア共和国領(1494年時点)ですが、アドリア海
東岸の現在のクロアチアのダルマチア地方が、ヴェネツィアの支配下に入っていたこと
がわかります。なぜかといいますと・・・
海上貿易による巨万の富と国際的な政治力を手中にしたヴェネツィアは、アドリア海
を自国の海(マーレ・ノストゥルム:我らの海)とする政策を推進しました。今でいう
ところの「経済安全保障政策」を国策として進めたのです。古代では、もちろんローマ
帝国が地中海全体を「マーレ・ノストゥルム」にしていたのですが、ヴェネツィア共和
国は西地中海方面は眼中になく(面倒くさいキリスト教の王国ばかりで儲からない)、
東地中海のオリエント地方(イスラム圏とは宗教に関係なく商売ができ、インドや中国
からの貴重品も入手出来て西洋諸国に法外な値段で販売できる)との交易に集中しまし
た。そのオリエントに向かうには、アドリア海の航行の安全確保が大前提となりました。
そこでヴェネツィアは、現在のクロアチアからギリシアに至るアドリア海東部に目を
付け、できる限り平和的に自国の影響下に収めようとしました。
現在のクロアチア海岸部に住む人たちをガレー船の漕ぎ手として雇用したり、沿岸の
港を貿易船や警備船の中継地として活用したのです。現在のクロアチアやモンテネグロ
の主要な港は、ヴェネツィア人により要塞化され、経済的にも繁栄を享受することにな
りました。オッサンが訪れてきたスプリット(イタリア名スパーラト)や、クロアチア
のシベニク(イタリア名セベーニコ)、モンテネグロのコトル(イタリア名カッタロ)
もヴェネツィアの傘下に入りました。
しかしヴェネツィアの意に従わない町が2つありました。一つはアドリア海中部の
クロアチアの街ザダル(イタリア名ザーラ)、もう一つがこのドゥブロヴニク(イタリ
ア名ラグーサ)だったのです。ザダルは内陸国ハンガリーの国王に臣従していたため、
ヴェネツィアにとって「喉元に突き付けられたナイフ」のようなものでした。しかし、
人口の少ないヴェネツィア人は単独では事を起こせないために、ヴェネツィアは機会を
待ちました。そして歴史的な第四次十字軍の海上輸送をヴェネツィアが引き受けること
に成功すると、十字軍の力を借りてザダルを攻撃し陥落させてしまったのです。なんと、
異教徒(イスラム教徒)と戦うために出陣したキリスト教徒の十字軍が、同じキリスト
教徒であるハンガリー王国配下の港町ザダルを攻撃して占領してしまったのです。
これに激怒した当時のローマ教皇はヴェネツィア共和国(とその住民)を破門にして
しまったのですが、ヴェネツィア共和国は平然とザダルを入手してしまったのです。
これを見ていたドゥブロヴニクの住民は、深く考えた末に興味深い対策を取りました。
まずはヴェネツィア共和国の友好国として、ヴェネツィアが望むもの(人、物、港)を
いつでも提供する(貸す)ことにして、内政もヴェネツィア共和国に倣って、あたかも
ミニ・ヴェネツィアとしてふるまうことにしました。人口の少ないヴェネツィア人には、
できるだけ穏便に事を済ませたいという実情があることを見越して、恭順の意を示して
おいて内政には干渉させないようにして独立を守ったのです。
この政策は成功し、ラグーサ共和国は19世紀初頭にナポレオンによって地中海世界の
秩序が崩壊(ヴェネツィア共和国も消滅)するまで存続することができたのです。
しかしオッサンは、その理由が「もう一つの政策」によるものであったことも、最近に
なって知りました。ドゥブロヴニクの人たちは、ヴェネツィアの友好国を装いながらも
警戒は怠らず、ヴェネツィア領に接した自国領の一部を、ヴェネツィアの仇敵であり、
自国にとっても脅威となっていたオスマン・トルコ帝国に割譲したのです。このことは
まさしく「毒をもって毒を制す」そのものですね。現在も、クロアチアの海岸部に僅か
にボスニア・ヘルツェゴビナ領が残りますが、このネウムの街周辺はドゥブロヴニクが
かつてトルコに割譲した領土だったのです。
・・・って、いったいいつになったら旅行記が始まるんじゃい!(by妻)
あ、スミマセン。ついつい調子に乗って西洋史オタク全開になっておりました・・・
ということでミニ・ヴェネツィアというべきドゥブロヴニクは、ヴェネツィア共和国
によく似ているのです。ヴェネツィアがアドリア海の女王と呼ばれたのに対し、ドゥブ
ロヴニクは「アドリア海の真珠」と呼ばれていました。そして、中世当時の街並みが、
城壁とともにほぼ残っている(17世紀の地震による影響はありますが)のです。
その政体もヴェネツィアを真似て「選挙で選ばれた総督」と、選挙権のある有力市民
による統治方法でした。その元首である総督(ドージェ)の宮殿を見学します。

本家ヴェネツィアの総督宮殿(ドゥカーレ宮殿)に比べると小さくて地味なのですが、
「ミニ」ヴェネツィアですから当然ですね。しかし、ヴェネツィアっぽい建築物です。
創建は15世紀、その後の地震で修復されているそうですが、ドゥブロヴニクを代表する
建物です。ここは総督の公邸であると同時に議会や共和国政府機能を持ち、ラグーサ共
和国の心臓部だったようです。
下の写真の右手が総督宮殿です。ギリシア風の列柱が並ぶところが正面入口ですね。
ここは観光客向けに販売しているドゥブロヴニク・カードで無料で入場できました。
総督宮殿からルジャ広場の方(北)を眺めると、背後のスルジ山の展望台が見えます。

さぁ総督宮殿の見学に参ります。
(やっとかよ! しかし、どこぞのチンピラみたいな恰好やな。by妻)

中に入ると、いきなり中庭です。イタリアなどの南ヨーロッパでは、建築物の内部に
広い中庭を作り、その周囲に住居や事務所のある部屋を配置するというスタイルが多い
ですね。中庭には総督の一人と思われる銅像が設置されていました。

中庭に設置された大理石の階段を登り、二階部分から見学していきます。

二階に上がってバルコニーから中庭を見下ろすと、こんな感じでした。

お、内部はなかなかゴージャスです。この部屋はサロンのような場所だったのかな。
女性の肖像や神話を題材にした絵画が架けられています。

ラグーサ共和国の総督は任期がなんと1ケ月しかなく、有力市民による持ち回り?の
名誉職だったようです。その任期中はこの宮殿から外出できないということですので、
皆さん、やりたがらなかったのでは?(アホ) ヴェネツィアの元首(ドージェ)は、
終身制でしたので歴史に名が残る人が大勢いますが、ラグーサ共和国の総督はほぼ無名
なんですよね・・・
こちらは総督の執務室でしょうか。意外と質素ですね。

まぁ市民中心の都市国家の選挙で選ばれた総督ですから、広大な領地を持つ王侯貴族
のように贅沢はできませんからね・・・
お、寝室はちょっと豪華ですね。でも調度品は控えめです。

こちらは議会が開かれた大広間でしょうか。こちらの展示品も地味でした。なんだか
宮殿というより市役所のホールみたいな感じです。まぁ政体が共和国ですからね・・・

公開されている部屋は一通り見てきましたが、あまり目を惹くものは多くありません
でした。マドリードのスペイン王宮や、ウィーンのホーフブルク王宮のような大国の宮殿
とは比べられませんが、イタリアやドイツの貴族の館や、本家ヴェネツィアの総督宮殿に
比べても質素な感じです。いかに海上貿易で栄えたと言っても、街の規模・財力は比較に
なりませんからね・・・
いや、そうではないのかもしれない。ラグーサ共和国は、ヴェネツィア共和国やオス
マン・トルコといった国々を刺激しないよう、海上貿易で得た富で宮殿を飾り立てるよう
なことはしなかったのでしょう。ひょっとしたら中世の北ヨーロッパのハンザ同盟の盟主
リューベックのような、合理的な生き方に近かったのかもしれません。

ドゥブロヴニクの街(の模型)を神に捧げる僧の石膏像がありました。経済第一主義の
ラグーサ共和国でも、やっぱりキリスト教の勢力が幅を利かせていたようですね・・・
動画を少し撮影していましたのでご参考までに・・・
さて、意外に質素で拍子抜けしてしまった総督宮殿の次は、その近くにある聖母被昇天
教会に参ります。正面は修復中なので建物は横から撮影しました。

元々は12世紀の創建らしいのですが、大地震で崩壊した後の18世紀にバロック様式で
再建されたそうです。
内部はこの小さな街にしては広く、主祭壇には有名な16世紀のヴェネツィアの画家、
ティツィアーノが描いた「聖母被昇天」が掲げられています。

おぉ、まさしくティツィアーノらしい絵です。この絵を見られただけでも満足です。

オッサンはついでにヴェネツィアのサンタ=マリア・グロリオーザ・ディ・フラーリ
教会にある聖母被昇天を思い出してしまいました。
参考までにフラーリ教会にあるティツィアーノの「聖母被昇天」も掲載しておきます。

この絵は妻と行った時に見たんだよな~ (2001年) デッカイ絵でした。
後陣にあるパイプオルガンは、小さめですがなかなか美しい。

色大理石の柱と派手な装飾の施された礼拝堂です。

正面から見ると、こんな感じです。

この後に、主祭壇の向かって左手にある宝物展示室を見学しました。残念ながら撮影
は禁止でしたので写真はありません。記憶している限りでは、かなりゴージャスな金銀
財宝がちりばめられた宗教道具?がたくさんありました。しかし内部には立ち入ること
ができず、柵の外から眺めるだけでした。(ケチやな・・・by妻)
ひとつだけ、宝物展示室の外にこんなものが展示されていました。
鎖につながれたキリストかな・・・金銀細工でキラキラしていました。

総督宮殿は質素でしたが、教会の所蔵品はゴージャスという、ちょっとどうなのよと
いう感じです。ちなみに宝物展示室は有料で、ドゥブロヴニク・パスは通用しません。
さて、ここまで見学して時刻は午後4時過ぎです。城壁の見学は午後5時過ぎて涼しく
なってからにしたいので、もうしばらく旧市街をブラブラします。続きます・・・
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。