Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

2023年GW:会津の旅 ⑦悲しい物語の場所へ・・・

  GWの会津旅行の記事が遅々として進みません。暑さのせいにしてはいけませんが、
 ちょいと書く気がなくなっていたところです。今日は冷房の効いた部屋でほぼ一日休ん
 でいたので、今のうちに書いておこうかな・・・と。(別にどうでもえぇで。by妻)


  会津若松駅のコインロッカーに荷物を預け、市内遊覧乗り放題バス「あかべぇ」号に
 乗って、まず最初に訪れたのは・・・

  会津の悲しい物語の場所・・・そうです、白虎隊の少年たちが果てた場所、飯盛山に
 参りました。偶然なのか、ここに着いたとたんに冷たい雨が降り出しました。かなり急
 な石段なので、動く坂道を利用しようと思ったら・・・なんと有料です。オッサンは、
 我慢して傘を差して坂道を登りました。(そらケチやからな。by妻)


  この石段を登ったところには、ここで自らの命を絶った会津藩の少年兵士、白虎隊の
 方々のお墓があります。オッサンはお墓の写真は撮らない主義ですので、静かにお参り
 し、若くしてこの地で散った少年たちに思いを馳せました。
  なぜ、10代の若さで、これだけ多くの若者たちが死ななければならなかったのか?   

  飯盛山からは今も若松の城下町と鶴ヶ城が見えます。猪苗代方面から山伝いに飯盛山
 までやって来た白虎隊とそれを率いる藩士は、ここで鶴ヶ城に火の手が上がるのを見て
 しまいました。「あぁ!お城が燃えている!・・・」
  
  もはやこれまで・・・白虎隊を率いる藩士は会津武士らしく切腹しようと決めました。
 そして「什(じゅう)の掟」を学んでいた少年たちは、「年長者には従わねばなりませ
 ぬ」でした。これは決して美談ではありません。集団自決というのは古今東西たくさん
 存在しますが、オッサンははっきりとこのように定義しています。
 「悲劇のヒーローを気取り、自分に酔った一部の原理主義者が、他の罪なき人たちを道
 連れにした陰惨な事件」、なのです。(オッサン、いやに熱くなっとるな。by妻)


  そして・・・この見晴らしの良い丘に、白虎隊の少年たちが自決した場所が記念碑と
 して残っていました。オッサンは、やるせない思いとともに目頭が熱くなりました。


  しかしなぜ詳しい事情がわかっているのでしょうか・・・それは、白虎隊は全滅した
 のではなく、唯一の生き残りの方がいたからなのです。
  16~17歳の少年藩士で構成された白虎隊は、会津藩が組織した年代別の藩兵のなかで
 最も若い部隊でした。(オッサンの玄武、壮年の青龍、青年の朱雀、少年の白虎という
 ように、中国の故事に倣っていました。)正確に言えば、飯盛山で自刃したのは白虎隊
 の一部隊なので、他にも生き延びた若者はいます。しかし、ここでいう「生き残り」の  
 方は、まごうことなくここ「飯盛山での集団自決」を生き延びた方なのです。


  その日飯盛山にたどり着いたのは、白虎隊の中の「士中二番隊」、つまり上級藩士の
 子弟で結成された部隊でした。彼らは日常、名高い藩校「日新館」で学び、幕末の戦乱
 に際して会津藩を守るために結成された白虎隊に抜擢されました。つまり、「僕たちが
 会津藩を守る」、と部隊の誰もが意気込んでいたことでしょう。
  しかし、新政府軍(主に西方の藩軍)に攻め立てられ、そしてその軍門に下った近隣
 の藩にも刃を向けられ、雄藩会津は唯一降伏せずに孤立無援の戦いに挑みます。しかし
 実態は防戦一方、鶴ヶ城の陥落も時間の問題と思われました。
  士中二番隊は、藩主松平容保(かたもり)を守る予備役でしたが、戦況悪化とともに
 出陣します。しかし戸の口原の戦いで新政府軍に敗れ、負傷兵を抱えたままここ飯盛山
 に逃げ延びてきたのでした。新政府軍が若松城下に入ることを許してしまい、今まさに
 目の前で鶴ヶ城が燃えているのを見た彼らは、「もはやこれまで。生きて恥をさらすな
 ら、名誉の死を選ぼう」と思ったとて当然かもしれません。しかし・・・


  死にきれなかった少年が一人いました。年齢を偽って、15歳で白虎隊に志願した男、
 飯沼貞吉さんです。実は鶴ヶ城は、この時点では落城していませんでした。彼らは早ま
 ってしまったのかもしれません。いや、戦の結果は変わらなかったので、早いか遅いか
 の違いだけなのでしょう。そして、飯盛山で20名の白虎隊戦士が自刃した直後、思いも
 よらぬ奇跡が起こったのです。しばらくしてこの場所に一人の女性が現れました。自分
 の息子の行方を捜していたという彼女が見たのは、こと切れていた少年たちの中で死に
 きれず、血の海で呻いている貞吉少年の姿でした。
  そして貞吉少年は、若松城下にいた長岡藩の医者の治療を受けて回復し、その後敵方
 の長州藩士に秘かに引き取られたのです。彼は自分一人が生き残ったことを恥じ、何度
 も自殺を決意しますが、後見人となった長州藩士である楢崎頼三は「生きて国のために
 尽くせ」と命じました。もうその時には会津という国も、長州という国もありません。
 飯沼貞吉少年は、逓信省(現在の総務省郵政局)の通信技師として働き、天寿を全うし
 ました。そう、彼が生き延びたことで、この悲劇が正確に語り継がれたのですね・・・

         


  彼は、飯盛山にあるお墓に仲間と一緒に葬ってほしいと願っていましたが、他の19人
 の遺族がそれを許さず、近くの場所に墓所を得たということです。残念ですが、これも
 仕方のないことでしょうか・・・


  飯盛山を下りてくる途中に、白虎隊記念館がありました。内部は撮影禁止でしたので
 外観だけ写真を撮りました。白虎隊にまつわるいろいろな展示があり、飯沼貞吉さんに
 まつわるものも残されていました。近代日本が誕生する陰で、このような悲劇が起こり、

 前途ある若い命が失われていたことは、今後も語り継がれていくべきでしょう。   


 ・・・なんだかいつになくシリアスな内容だったな、オッサンにしては・・・(by妻)
 はい、「らしくない」ので、次回からは普通に戻る予定です。😆