Bonne(ボンヌ)のブログ

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2023年GW:会津の旅 ⑩会津の誇り 鶴ヶ城へ・・・その1

  今度は会津旅行の続きです。
  いよいよ会津の都、若松最大の見どころ鶴ヶ城を見学します。(鼻息が荒いで。by妻)
  三の丸側の入口から入場しました。二重のお濠に囲まれて敷地面積も広いので、お城
 の天守閣がなかなか見えてこないのですが・・・

  二の丸と本丸を繋ぐ廊橋のあたりから、お城がようやく見えてきました。

  近くまで来て見上げると、実に凛々しいお姿です。このような白亜の天守閣になった
 のは江戸時代初期の頃だそうです。オッサンが昔、中学生の頃に出不精の父と弟を無理
 やり連れだして(父親に金を出させて😆)会津旅行をした時には黒い瓦でしたが、2011
 年の大改装でオリジナル(江戸時代)の赤瓦になったということです。
  白い天守閣に赤い瓦という、全国的にも珍しい美しいお城ですね。

  会津の誇る東日本屈指の名城である鶴ヶ城は、室町時代の1384年に葦名直盛が築いた
 東黒川館を起源とし、文禄2年(1593)、会津に移封された名将蒲生氏郷が東日本で初
 の本格的な天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名しました。以来、雄藩会津の象徴として、
 その雄姿を見せていました。 
  幕末の慶応4年(1868)の戊辰戦争では、新政府軍の一か月に及ぶ猛攻に耐え、難攻
 不落の名城として知られるようになりましたが、孤立無援となった会津藩が抗戦空しく
 遂に新政府軍に降伏した後、明治7年(1874)までに天守閣をはじめとする全ての建物
 が取り壊されてしまいました。明治新政府は、旧幕府方の藩に限らず、幕藩体制を象徴
 するお城・天守閣の破壊を命じましたので、鶴ヶ城だけが破壊されたわけではないので
 すが、やはり朝敵とされた会津藩のお城が無傷でいられるとは誰も思わなかったでしょ
 う。残念至極ではありますが、これも歴史の一部として受け入れるしかないのか。
  ちなみに明治政府の「お城取り壊し」活動のせいで、現存する天守閣があるお城が、
 日本でも数えるほどしか存在しない状況になってしまいました。これまた残念至極・・・


  しかし、戦後しばらく経過した昭和40年(1965:オッサンの誕生年😆)に天守閣が
 再建され、平成に入り茶室や隅櫓も復元されました。平成23年(2011)には、屋根瓦
 が幕末当時の赤瓦にふき替えられました。ちょっと小奇麗になりすぎてしまいましたが、
 かつての雄姿を再び取り戻したということです。
  天守閣のある本丸は広い公園になっています。着物姿の女性の姿もちらほら・・・
 観光客の方でしょうか?最近は京都以外でも、レンタルした着物姿で観光する若い男女
 の姿を見かけるようになりましたが、ちょっと歴史的な雰囲気に浸れるのでしょうね。

    

  さっそく内部を見学します。内部は歴史的な資料が展示される博物館のようになって
 います。黒ずくめの国宝・松本城も素晴らしかったのですが、歴史的なエピソードにお
 いては鶴ヶ城の方が勝りますね。


  お城内部に入りますと、いきなり入館者向けの注意事項が書かれた看板がありました。
 会津藩幼年者向けの心得「什(じゅう)の掟」のような感じになっています。😆

     

  入口近くには、天守閣を支える石垣がむき出しになった部分がありました。野面積み
 という大雑把な摘み方の後、打ち込み接ぎ、切り込み接ぎなどの技を駆使して、隙間の
 ない緻密な石垣を作っていったとのことです。結構大変な作業ですよね~

  下の階から順番に展示物を見学していきます。
  あ、明治7年に解体される前の、鶴ヶ城の貴重な写真が残っていました。
  敗者となった会津藩は取り壊され、藩主・藩士は青森県北東部・下北半島の斗南藩に
 移され、鶴ヶ城は新政府の管理下になってしまったそうです。ま、そうなるわな・・・

     

  屋根に使われていた赤瓦のオリジナル(江戸時代のもの)が展示されていました。

  歴代藩主の家にちなんだ展示物が、少しずつですがありました。まずは会津藩の祖と
 もいうべき葦名(あしな)家です。後世に作られた藩主の座像が展示されていました。
 葦名家は鎌倉時代から戦国時代にかけて会津を統治し、この若松が黒川という名前で
 あった頃に鶴ヶ城の前身となる城を作り、城下町を整備したということです。さしづめ
 会津藩のルーツといえるかもしれません。1384年から1589年まで約200年間の統治です。

 

  戦国時代にその葦名氏を滅ぼして支配権を確立したのは、かの伊達政宗だそうです。
  しかし天下を統一した豊臣秀吉の命により、わずか1年で会津の統治権を引き渡しま
 すので、ほとんど会津の歴史においては見るべき足跡はないと思われます。一応独眼竜
 政宗のシンボルのような兜が展示されていました。

      

  その後を継いで、秀吉の命令で会津にやってきたのは、これまた戦国時代のヒーロー
 の一人、名将蒲生氏郷(がもううじさと)です。どうやら秀吉の部下たちの間の勢力争
 いの中で割を食い、京都や地盤である滋賀県から遠く離れた会津の地に「飛ばされ」て
 しまったようです。恐らく有能なライバルである氏郷を蹴落とすために、秀吉をそその
 かした悪いヤツらがいたのでしょう。もっとも、秀吉とすればいまだに油断のならない
 伊達政宗への牽制のため、有能な武将であった氏郷を配置しようと考えたのでしょう。
  意に沿わぬ人事とはいえ、信長と秀吉に臣従してきた氏郷は命に従い、縁もゆかりも
 なかった会津を見事に統治します。氏郷は城下の黒川の町を「若松」と改め、また城も
 1592年に新たに築城しました。この時、蒲生家の家紋である鶴にちなんで「鶴ヶ城」と
 名付けられることになったようです。そうだったのか・・・鶴ヶ城の城下町も整備され、
 現在の若松の町の基礎が作られたということです。

         

  氏郷の功績はそれだけではありません。故郷の滋賀県から漆塗りの職人を移住させて
 会津の手工業を発展させます。現在も高い評価を得ている「会津漆器」は、蒲生氏郷の
 時代から始まったといわれています。また、おそらく上方の食生活や文化なども、蒲生
 家の短い統治期間に根付いていったのではないかと思われます。単なる地方豪族の都で
 しかなかった会津は、こうして洗練された武家文化の育まれた先進地域になっていった
 のでしょう。蒲生氏郷さんの肖像画はちょっとひょろっとしたオッサン風ですが、文武
 両道、信長や秀吉に従い重要な戦を勝ち抜いてきた名将であり、優れた統治者でもあっ
 たということです。残念ながら、人遣いの荒い秀吉の命で朝鮮出兵に駆り出され、九州
 の地で体調を崩し、京に戻った後に伏見の蒲生屋敷でわずか40歳でこの世を去りました。 
 秀吉も、おそらく会津の人たちも、その死を惜しんだことでしょう。       

     

  氏郷さんの直系子孫はいずれも短命で、蒲生家の統治は通算でも約40年でした。一時
 隣国の上杉家の支配をうけますが、江戸時代の初期は加藤家が統治しました。この加藤
 家の時代に鶴ヶ城は5層の白亜の天守閣に改装されたそうです。

    

  加藤家の後、徳川家康の孫であり、二代将軍秀忠庶子であった保科正之が1643年に
 会津に移封されます。庶子とはいえ将軍家の血筋ですから、会津藩のステータスはとて
 も高かったと思われます。これを機に保科家は将軍家の血筋「松平」家を名乗りますの
 で、保科・松平時代と言われるようになります。このほぼ江戸時代を通じて会津を統治
 した松平家の時代が、会津の黄金時代となりました。

  保科正之の命により、これまで黒瓦だった鶴ヶ城は、鉄分を多く含んだ釉薬を塗った
 赤瓦に取り換えられました。雪国会津の低温や雪への対策だったそうです。これで、今
 見られるような鶴ヶ城の姿になったというわけですね・・・


  さて、会津藩の歴史をたどっているうちに結構長くなってしまいましたので、この続き
 は次回にいたします。(オッサン、日本史は習っていなかったから、いちいち調べものを
 して裏をとらなアカンやろ。大変やの~、せいぜい頑張りや。by妻)