Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

2023年GW:会津の旅 ⑯江戸時代の宿場町「大内宿」・・・その1

  年が変わらないうちに会津旅行の記事を終わらせよう、という気になりましたので、
 立て続けに参ります。(忘れかけた頃になって慌てて書くと、いい加減になるで。by妻)


  会津鉄道のお座敷トロッコ列車に乗って湯野上(ゆのかみ)温泉駅に到着し、道路の
 混雑をしり目にタクシーで20分程で、すんなりと目的地の大内宿(おおうちじゅく)に
 到着しました。非常にのどかな光景が広がります。

  ここは江戸時代の日光と会津を結ぶ会津西街道の宿場町で、江戸時代にはたいそうな
 賑わいだったそうです。当時は江戸から東北へのメインルートだったのでしょうね。
 会津藩主の参勤交代の時には、この大内宿が若松からの最初の宿泊地となったために、
 本陣が置かれていたそうです。
  その後、白河を通る街道に参勤交代ルートが移りましたが、会津西街道は物流ルート
 としての役割を果たしていました。この頃から、純粋な宿場町と言うよりも「半農半宿」
 という形態の宿場町となり、現在のような茅葺屋根の農家のような街並みが形成されて
 いったようです。確かに中山道の宿場町の妻籠や馬篭に比べると、ちょっと農村っぽい
 素朴なイメージがします。(あくまでイメージね) しかし明治時代に敷設された鉄道
 が離れた場所を通るため、物流ルートとしての役目も終わり、ただの農村集落になって
 いったのでしょう。
  現在は宿場町の真ん中を貫く未舗装の街道に沿って、南北約450m、東西約200m程の
 狭いエリアが、国の「重要伝統的建造物保存地区」に指定されているそうです。この宿
 が脚光を浴びるようになったのは、昭和42年に東京から茅葺職人の調査に来た学生が、
 この景観の素晴らしさに驚嘆し、保存活動を働きかけたことによるといわれています。
 そして観光名所として定着するようになってからは、この小さな集落にキャパを越える
 大勢の観光客が訪れるようになったということです。ま、オッサンもその一人ですね。


  そしてこの大切な村・宿場の景観を未来に引き継いで行くために、地元の下郷町では
 住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り、景観保存と伝統的
 な屋根葺の技術習得、継承に取り組んでおられるそうです。そのような努力があって、
 この景観が保たれているのですね。有難うございます。
  現在でも約30軒の茅葺民家が並んでおり、これらは民芸品を売るお店や食事処として
 営業しているのですが、今でも住民の方がお住まいになっているのだそうです。つまり
 単なる観光名所ではなく、本当に今でも生活の場として機能しているのですね。
  この家 ↓ は、集落の入口付近にあるのですが、有名な蕎麦屋さんでした。  

    

  混雑する前に、先に食事にしようかと思ってお店に入ると、受付帳があります。お店
 の方に伺うと「現在40組待ちで、70分後になります」とのこと。どっひゃ~😱

 まだ11時を少し回ったところなのに!
  ということなので、整理券を貰って名前を記入し、観光を終えてから食事をすること
 にしました。しかし5/1は平日なのに、この混みようは一体何? そうしたら5/3~5では
 どれだけ待たされるかわからないですね。タクシーの運ちゃんも言っていたのですが、
 観光シーズンのピークは絶対に避けた方がよさそうです。なんせ駐車場の空きがなく、
 道路も渋滞して、ここにたどり着けずに諦めて帰ってしまう方々も多いそうです。😱


  さて、気を取り直して集落の中をゆっくり見学してまいります。そうこうしている
 うちにどんどん人が増えてきているぞ。おそらく駐車場は既に一杯だと思われます。
 お昼時は特に人が集中しますので、もっと早い時間帯にくるべきだった・・・近くの
 湯野上温泉に泊まっていれば、朝イチで来ることができたでしょうが、まぁ今更言って
 も仕方ない。(オッサンの計画が良くなかったんや。by妻)

  確かにのどかな光景で心が休まるのですが、やっぱりちょっとキャパシティを超えて
 いるな・・・大声で話すC国人は見たところおらず、ほぼ日本人観光客ばかりでしたが
 やっぱり狭いエリアに人が集中すると、少々騒がしくなってしまいます。
  そんな中でも構わずにパンダ君の記念撮影です。(アホ) 

  5月なのでこいのぼりが出ていますね。
  茅葺の平屋の家が連なっていて壮観です。ほとんどがお店なので、ちょっと軒先を
 覗いて見て回るのが楽しいです。メインストリート(昔の街道:往還)の両脇には、
 排水溝が流れています。きちんと設備が整備された宿場町だったのでしょうね。

  おみやげ物屋には、会津伝統の漆器やガラス細工などが売られていました。

  ちょっとお腹がすいてしまったので、散策の合間に甘栗焼を買って食べました。
 ちゃんとベンチもありますので、買い食い(失礼)をする方々も、ちらほらいました。

  集落の中ほどに、ちょっと大きめの茅葺屋根の建物がありました。これは大内宿街並
 記念館と言う資料館のようです。有料ですが、せっかくなので入場してみました。

  大内宿の本陣の跡にあるそうですが、江戸時代のホンモノは残念ながら戊辰戦争時に
 焼失し、図面などの記録も残っていなかったために、仕方なく近くの川島宿、糸沢宿の
 本陣の記録を参考にして昭和59年に復元されたものだそうです。江戸時代のオリジナル
 が残っていれば最高でしたが、まぁ仕方がないですね。ちなみに戊辰戦争時には大内宿
 そのものが戦場になることはなかったということで、それ以外の大きな被害は免れたと
 いうことです。それだけでも有難いと思うべきかもしれません。


  内部はこんな感じ ↓ で、半農半宿の時代(江戸時代後期)の典型的な民家を再現して
いるようです。土間には脱穀機などの農作業の道具が展示されていました。  

 

  センバコキ、って昔の田舎にはあったような気がします。

  囲炉裏には鉄瓶の急須?が吊るされ、藁が燃やされていました。茅葺屋根の防虫対策
 のために、ずっと燃やしているそうです。

     

  そうそう、ここにはボランティアの地元のおじさんがいて、独特の会津弁で観光客に
 解説をしてくれました。「この囲炉裏には席次があるんだけど、わかるかい?」なんて
 クイズも出してきました。はい、一番の上座は奥側で主人の席。ここに座ると、土間に
 つないである馬(耕作用)の様子が見えるので、もし異変があってもすぐに気づくこと
 ができるようにとの理由もあったそうです。馬は、農家の大切な財産だったのですね。
 あとは、主人の右手がおばあちゃん(主人の母親)、主人の左手が奥さん、子供は土間
 側・・・だったと記憶していますが、間違っていたらスミマセン。😆


  そうそう、観光協会のHPでは、茅葺屋根の修復の写真が載っていました。宮大工ほど
 ではないですが、特別な技能を必要とするようで、誰でもできるわけではないようです。

 このような方々のおかげで、この景観が保たれているのですね、有難うございます。


  ちょっと長くなりましたので、後半は次回へ・・・(またか。by妻)