Bonne(ボンヌ)のブログ

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2023年GW:会津の旅 ㉓会津藩士の原点はここなのか?・・・

  越年してしまったもう一つの旅行記事、2023年の5月の会津の記事を再開します。
 もうオッサンもほとんど忘れかけておりますので、細かいことは端折らせて頂きます。
 (いや、別にそこまでして書かなくてもえぇと思うけどな・・・by妻)


  会津旅行の5日目。一日滞在を延ばしてまで行きたかった場所へ、朝から参ります。
 再び会津若松駅前のバスターミナルから、一日10本ほどしかないバスに駆け込み乗車。
 行き先は、若松市のさらに北にある隣町にある施設です。
  ローカルバスは、地域の集落をこまめに辿っていきますので、直線距離の2倍以上、
 あちこちの集落に行ったり来たりしながら、約50分かけて目的地に到着しました。
 たぶんタクシーなら20分くらいで着くと思いますが、値段は10倍以上なので節約です。

  バス停で下車すると磐梯朝日国立公園の北側部分、山形県との県境にある飯豊連峰
 (いいでれんぽう)の山々が見えました。GWだというのに頂上付近はまだ雪が残って
 います。山形県側の方では、まだまだ雪があるのかなと思いました。


  さて、バス停付近は閑静な住宅街なのですが、実はこの近くに会津藩ゆかりの重要な
 施設があるのです。もともとは鶴ヶ城の近く、すなわち会津藩の中枢にあったのですが
 戊辰戦争により荒廃し、その後消滅してしまっていたものを、この場所に復元させたの
 です。それはまさしく、「会津藩の魂」ともいうべきものでした。


  そうです、名高い会津藩校「日新館」の復元施設がここにあるのです。オッサンは、
 どうしてもここが見学したくて、もう一日会津に残ることにしたのです。
  復元された日新館の敷地内には、会津藩士が幼少から叩き込まれてDNAとなっている
「什の掟」の看板がありました。オッサンは、このうちの3つくらいしか実践できていま
 せんが・・・(そんならオッサンは会津藩士にはなれんちゅうこっちゃの~ by妻)


  会津藩校「日新館」についての詳しいことは、下記のHPを参照ください。オッサン
 のくだらない文章よりもはるかに正確で、感動できる記事が掲載されています。
  https://nisshinkan.jp/about


  さて、開館は午前9時(だったと思う)なので、しばらく正門前で待っていました。
 すると、坂を登って胴着姿の若者たちが次々に現れました。なんだろう?と思っていた
 ら、どうも地元の弓道部の生徒さんたちのようです。高校生かな? 面白いのは什の掟
 よろしく、男子と女子が別々にやってきて、別々の場所で練習をするらしいことです。
 この日新館には、会津藩校ゆかりの弓道場が再現されているので、そこで部活動をして
 いるのでしょうね。GWの連休中ですが、朝早くから大変ですね。頑張って!
  その間にオッサンは、一人手持無沙汰なので、こんな写真 ↓ を撮影。(アホ)

  本当は鶴ヶ城近くのオリジナルの場所に復元してほしかったのですが、既にいろいろな
 施設が建てられてしまった後なので、同様の規模を残すのは無理と判断し、場所は離れて
 も、当時の姿をなるべく忠実に反映したほうがよいということで、この郊外の場所に復元 
 されたようです。それはそれで苦渋の決断だったのかもしれません。

  では、開館時間になりましたので早速入場します。GWなのに見学に来ていたのは
 オッサンの他は数人しかいませんでした。やはり観光客が訪れるには不便な場所ですか
 ら仕方ないですね・・・

  正門(南門)の後にも次の門(戟門)があります。ここをくぐると、日新館のメイン
 エリアになります。オッサン、ちょっと緊張気味に戟門をくぐっていきました。

    

  うわぁ、中国の宮殿のような造りになっているのですね~ ま、と言っても儒教時代
 の中国なので、ピープルズ・リパブリック・オブ・チャイナではありませんけれどね。

  そう、儒教精神の昇華された姿をイメージして建造されたのだろうと思います。この
 ような施設の中で、会津藩士の子弟たちは幼少のころから学び、鍛錬をしていたのだと
 思われます。まるで古代ローマの青少年向けギムナジウムのような感じですかね・・・


  さて、広い中庭を囲んでロの字型に展開している建物が、メインの見学対象となって
 いました。オリジナルではどうだったかは知りませんが、まずは会津藩校の授業風景を
 再現した展示コーナーに参ります。ドキドキ・・・(アホ)


  中に入ると・・・ほう・・・・
  昭和の時代の小学生だったオッサンには、なんとなく懐かしくなるような光景です。

 もちろん教室は畳ではありませんでしたが、廊下と教室の分かれかたが似ている・・・


  そして、このコーナーでは実際に会津藩校で教えられていたカリキュラムを、精巧な
 人形を使って再現していますので、視覚的にもわかりやすい展示になっていました。
  はい、まずは何をおいても「読み書き、そろばん」ですよね。人間たるもの、自分が
 意思を持っているように、どんな相手も(自分とは異なるかもしれない)意志を持って
 いるのが当然ですよね。(まれに「な~んも意志のない、な~んも考えていない人」も
 いることはいますが。あ、今の日本ではそういう人の比率が増えているかも・・・)
  ですので、まずは自分の見解・意思を相手に正しく伝える技術、そして相手の主張を
 正確に読み取り判断する技術、そのうえで合理的解釈の元に双方のWinWinの解決策を
 探求していく姿勢・・・を育む必要があるのです。つぅことで「読み書きそろばん」は
 今でも大事だよなと思うオッサンでした。

  古今東西優れた国家・組織においては、例外なく基礎教育の普及度が高いのは間違い
 ありません。古代ギリシア・ローマは、為政者階級(人口比率の10%程度)に限った話
 ですが、リベラルアーツと呼ばれる基礎教育を徹底していました。それが現代西洋社会
 のエリート教育にも受け継がれているのは周知の事実ですよね。
  そして我が国をはじめとする儒教文化圏(なるべく中華文化圏とは言いたくない😆)
 では、為政者ではなく為政者を支える官僚層に高度な教育と知識を集約する仕組みを
 確立しました。古代中国の唐代から続く「科挙」は、我が国やK国を含め、頭が良くて
 辛抱強く働く優秀な官僚を多く育成し、国家(というより為政者)に奉仕させる仕組み
 の原点になっているとオッサンは思っています。 


  あ、ちょっと脱線しました。すなわち会津藩は、儒教精神の最も重要な要素の一つ、
 「国を平穏に治め、為政者が安心して治世を全うできるようにするためには教育が大切
 である」ということに気づき、藩政に着実に反映させていたのです。実は、それが雄藩
 会津の強さの原点であったとオッサンは思っています。

  みんな一所懸命勉学に励んでいますよね~ (オッサンの小学生時代とはえらい違い
 やな・・・by妻)

  天球儀を用いた天体観測なんかもしていたのですね~ コペルニクスの「地動説」は
 会津藩士たちの間では常識だったのだと思います。


  あっ!ここでオッサンは愕然としました。この人形の脇にある木の札に書かれていた
 のは・・・ そうなんです。この藩校で学ぶ少年たちの人形は、あの飯盛山で自害して
 果てた白虎隊の少年たちの名前なのです・・・それに気づいたオッサン、いきなりぶわ
 っと涙が溢れてきました。(普段は鈍感なくせに、意外に感動しぃやな。by妻)
  そうか、彼らも戊辰戦争が起きるまではこうして日新館で学んでいたんだよね・・・
 切なくも悲しい思いですが、しかしこうやって復元された日新館で永遠に?その名前が
 残り、後世に伝えられていくのであれば、少しは慰めにもなるのかな・・・

  そうそう、ここでは武士たるものの心得、食事の作法から、切腹なんかも教えていた
 のですよね・・・もう、そんなことは教えちゃダメですよ。命あっての物種です。名誉
 や誇りは大事なことですが、それに殉じて死んでしまってはそこで終わり。生きていて
 こそ、その後の可能性が生まれるのですから・・・
  どんなピンチに遭遇しようとも、どうにかして生き残り自分の力を発揮できる可能性
 を残すべきだと、オッサンは思うのです。日本の切腹文化は、古代ユダヤの「玉砕強要
 文化」と同じだと思っていまして、それによる悲劇的結末を避けるためには、その同調
 圧力を乗り越えられる並外れた知性(知力)が必要なんだろうと思います。 
  (なんだかいつもとノリが違うの~ オッサン。by妻)


  はい、一回で終わらせようと思っていたのですが、やっぱり終わりませんでした。
 会津藩校「日新館」の記事は、もう一回続けさせていただきます。スミマセン。