Bonne(ボンヌ)のブログ

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2017年夏、北欧&ドイツの旅 ㉞ハンザの女王リューベック

  だんだん間隔があいてきました4年前の北欧&ドイツの旅、そろそろ終盤に近付いて
 きました。(勝手にやっとれ!by妻)
  ドイツ滞在は2日間だけなのですが、そのうち1泊は北ドイツの小都市リューベック
 にしました。中世から近世にかけて、北ヨーロッパを中心に経済活動を中心に活躍した
 「ハンザ同盟」の銘酒ちやう盟主であり「ハンザの女王」と呼ばれた誇り高き街です。 
 産業革命以前は、大量輸送交通は圧倒的に船が中心であり、海上輸送の担い手が政治的
 な力を有してくることは、ヴェネツィア共和国の例を見るまでもありません。
  ハンザ同盟には、北ドイツのハンブルクやブレーメンのほか、エストニアのタリンや
 ラトヴィアのリーガなど錚々たる都市が加盟していました。といいますか、ハンザ同盟
 都市であったがゆえに、さらに繁栄したといえるかもしれません。
  しかしリューベックは今では港の機能を失い、北ドイツの小都市となってしまいまし
 た。リューベックの中心街は、北海に注ぎ込むトラヴェ川と、トラヴェ運河に挟まれた
 中州にあります。中央駅から徒歩3分程で旧市街の入り口、トラヴェ川のほとりに到着
 します。今は行き交う船もなく静かに水をたたえるトラヴェ川と、そのほとりには昔の
 倉庫だった建物がずらりと並んでいます。往時の雰囲気の残像のような感じです。 

  かつては北海に注ぎ込むトラヴェ川の河港が機能しており、北海・バルト海を中心に
 交易の輪を広げる商人の町だったそうです。後背地には十字軍(聖地イェルサレム奪還
 を目指したローマ法王庁とそれに便乗した西欧・封建諸侯の軍事活動)が失敗した後、
 現在のポーランドを含む北ドイツ地方に入植したドイツ騎士団(半分強盗団かも)が、
 キリスト教の布教とともに勢力を伸ばしており、中・西部のドイツには神聖ローマ帝国
 のもとに緩やかに結びつくドイツの諸侯・大司教の領地がありましたので、買い手には
 不足しなかったでしょう。北海の海産物と、それを保存する塩が重要な交易品であった
 といいます。リューベックの近くには岩塩の産地であるリューネブルクもありました。
  
  ハンザ同盟は、もともと北ヨーロッパの商業活動を牛耳っていたヴァイキング勢力に
 対抗するため北ドイツの商人(当時は定住しない旅商人が主流)が、領主のザクセン公
 ハインリヒの力を借りて純粋な商業団体として立ち上げたそうですが、そのうちに力を
 つけた商人が都市に定住し、都市の有力市民として政治・経済活動の中心を担うように
 なって、政治的な意味合いを帯びた「都市間同盟」に変わっていったのだそうです。
 その過程で中心となったのがリューベックです。リューベックがまず近隣のハンブルク
 と経済同盟を結び、次々とその仲間を増やしていきます。そして緩やかな商人の連合体
 であったハンザ同盟が、リューベックをリーダーとする都市間同盟に発展したことで、
 13世紀末頃にはリューベックの権勢は北ヨーロッパ随一となったそうです。


  下の図がハンザ同盟の加盟都市(赤い●印)です。四角い赤で示された四か所は在外
 公館設置都市でロンドン、ノルウェーのベルゲン、フランドルのブルッヘ(ブルージュ)
 そしてロシアのノヴゴロドです。幅広く活動していたのですね。
  ちなみに北欧の強国デンマーク、スウェーデンの両王国は自国商人を優遇する方針の
 ため、ハンザ同盟には加わっていません。ということはハンザ同盟都市、リューベック
 の敵対勢力とはこの二つの王国だったのかもしれません。 


  「ハンザ同盟」を、政治・経済的な都市間同盟として活用していったリューベックの
 「やり口?」は、まるで古代アテネが盟主となった「デロス同盟」を思い起こさせます。
 ただしアテネの場合は純粋な商業活動だけでなく、当時のギリシャで覇権を握っていた
 スパルタに対抗する「軍事同盟」的な要素もありました。ハンザ同盟には、デンマーク
 王国という邪魔者はいたもののそこまでの明確な仮想敵国はなかったようですが、神聖
 ローマ帝国皇帝や封建諸侯が自分たちのやり方に口を挟んだり妨害しないよう牽制する
 意図はあったと思います。(政治的権力者は往々にして、経済人を自分の野望のために
 活用したり、逆に邪魔だと締め出したりしますからね。)


  ローマ帝国の滅亡後は大規模な土木工事などは行われなくなって久しく、中世の港は 
 土壌の浸食の恐れがある海岸ではなく、海に流れ込む(ある程度)大きな川を少し遡っ
 た場所に築かれることが多かったそうです。ベルギーのブルッヘ(ブルージュ)もそう
 ですが、リューベックの港もバルト海からトラヴェ川を少し遡った場所に築かれました。
  それでもやはり長い年月が経つと川底に砂がたまり、大型船の航行ができなくなって
 リューベックも衰退していきました。かつて「死の街」とまで言われたブルッヘほどは
 廃れてはいませんが、観光都市としての人気は(過去の栄華に頼っている?)ブルッヘ
 には遠く及ばず、訪れる観光客はそう多くないようです。
  しかしオッサンは、その「ハンザの女王」の栄華の跡を観光しにまいりました。
 昔(中学生の頃)、NHK教育テレビ「ドイツ語講座」で小塩 節(おしお たかし)先生
 がコーヒーブレイクでリューベックのことを話していて、その時見た映像が脳裏に焼き
 付いていて、ぜひいつか行きたいと思っていました。ようやく念願が叶いました。
 (どうでもいいけど、前置きが長すぎるで・・・by妻)


  さぁさっそくリューベックを見学します。リューベックの旧市街の入口、トラヴェ川
 を渡る前に突如現れる巨大な石の城門。これがハンザ都市リューベックの象徴ともいう
 べき有名な「ホルステン門」です。中学生だったオッサンが、テレビで見てコーフンし
 た光景が目の絵の前に現れました。(まぁ日本にこんな建造物はないからな。by妻)

  しかしこの門、よく見るとちょっと右に傾いています。(上の写真は建物をまっすぐ
 になるように撮影したので地面の方が傾いて見えますが、地面を水平にして撮影すると
 右側がめり込んでいるのがわかります。こんな感じ ↓ になります。)

  建物の重量がありすぎて、軟弱な地盤なのでだんだんめり込んでしまったようです。
 建設途中で気づいたそうですが、そのまま完成。ちょっと危ないんじゃないの?
  1477年に建造されたそうです。あれ?この「S.P.Q.L」ってどこかで見たような気が。
 あ、古代ローマの真似ですね。「セナートゥス、ポプルス、クェ、ロマーヌス」(ロー
 マ元老院議員ならびにローマ市民)をもじっているのでしょうが(最後のLはリュベク
 スのことか?)、ハンザ同盟の盟主であるリューベック商人たちの心意気が現れている
 ようですね。「暗黒の」という枕詞が付いて回る西欧の中世において、リューベックに
 おいては元老院と市民が主権を持ち、優れた自治を行ってたということでしょうかね。
 この点でもヴェネツィア共和国に似ていますね。経済優先が政治的成熟に繋がるという
 のは案外当たっているのかも。(某C国は例外ですかね・・・あ、政治的発言はNGね) 


  そして反対側(公園側:町の外に向かう側)には、こんな標語が書かれています。
 ”CONCORDIA DOMI FORIS  PAX"  ラテン語で「内には団結を、外には平和を」と
 いう標語が刻まれています。この町の為政者(商人)たちは、現実を直視する透徹した
 視線と、明確で確固たるポリシーを有していたことがよくわかります。少し前に経済的
 に力をつけたイタリアの中世都市国家が、内輪もめで力を浪費して衰退したこと(二つ
 の有力家系の勢力争いが絶えなかったジェーノヴァや、ヴェローナ:シェイクスピアの
 ロミオとジュリエット:キャピュレット家とモンタギュー家の争いで有名ですね)や、
 世俗君主に逆らって痛い目を見たりしたこと(神聖ローマ皇帝を敵視して、自治を取り
 上げられたミラーノなど)をよく知っていて、自分たちの都市国家の衰亡を防ぐために、
 町のシンボルであるこの城門にこの文字を刻んだのでしょう。自らを戒めると同時に、
 この地を訪れる他国・他都市の人にもメッセージを伝えようとしたことは間違いありま
 せん。スゴイ人たちがいたものです。日本も見習わないといけないね(無責任・・・)。

  ちょっと今回は頭でっかちなことばかり書いて、面白くなかったですね。
  ではこの城門をくぐって、旧市街観光に出かけます。
 (確か、もう午後7時過ぎやけどな・・・by妻)


  


しいしいですが、