Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

今日は鉄っちゃん記事です・・・(意味もなく長いぞ!by妻)

  昨日、会社帰りに久しぶりにたまプラーザにある書店に寄って雑誌を見ていたら、
 懐かしい鉄道雑誌がありました。何気なくパラパラと見ていたら・・・「新幹線開通に
 伴う並行在来線問題」と「凋落の幹線鉄道」といった、なんだか社会問題を論じるよう
 な記事が目に入りました。おりしも西九州新幹線(いわゆる長崎新幹線)が開通直後で
 あり、来年には北陸新幹線が金沢から福井県の敦賀まで延長され、さらに2030年(予定)
 には北海道新幹線が札幌までつながるということが決まっているので、現在の幹線鉄道
 である並行在来線問題があちこちでクローズアップされています。


  写真は昨年秋に開通したばかりの西九州新幹線。長崎市内を走る「かもめ」号です。
 あ、長崎市内を走る路面電車が見えますね。まだ佐賀県の武雄温泉までの間の暫定的
 な開通ですが、ついに長崎にも新幹線がやってきたのですね。


  新幹線が通じると、都市間の移動は早く便利になる反面、地域住民の足としての在来
 線がJR各社から切り離されて、第三セクターで運営されるのが流れとなっています。
 それどころか、北海道新幹線の札幌開通時には、長万部と小樽間の在来線(函館本線の
 通称「山線」)は廃止が決まっており、函館と長万部間も旅客営業は廃止となる公算が
 大きい(北海道と本州を結ぶ貨物路線として残される余地はあるが、財源の問題が解決
 していない状況)という、鉄ちゃんにとっては寂しい現実がセットになっています。
  オッサンはそのことを予測し、数年前に函館本線の山線に乗りに行っているのですが
 (ニセコ観光と合わせてですけどね)、ついにその日が近づいてきたかと戦々恐々です。
 (別にオッサンが気にすることではないと思うけどな・・・by妻)


  背景には日本の地方人口の減少と高齢化、高速道路整備の進展と地方の完全なクルマ
 社会化といった、鉄道そのものとは関係のない社会現象が大きく影響しているのは言う
 までもありません。一方明治時代から昭和初期に開通した地方の幹線は、当時の技術の
 限界もあって、必ずしも都市間を最短距離で結んではおらず、しかも山間部や海沿いを
 縫うように走っているので高速化や近代化が難しいため、近年開通した高速道路を走る
 高速バスに、鉄道が全く太刀打ちできなくなっているようです。鉄ちゃんのオッサンに
 とっては大変残念なことですが、地方に住む方々にとっては「早くて便利で快適で値段
 が安い」他の選択肢はあれば、そちらに流れていくのは当然のことなのでしょう。


  第三セクターとして存続しても、運営主体は地方自治体となり、その赤字の穴埋め
 負担が財源の乏しい地方自治体の財政状況をさらに苦しくするのです。さきほど紹介
 した西九州新幹線が暫定開業となったのも、新幹線ができてもメリットがない(逆に
 建設費負担や並行在来線の負担を押し付けられるので、デメリットの方が大きい)と
 判断した佐賀県の同意が得られていないためなのです。佐賀県の言い分も、佐賀県民
 の立場に立てば十分わかります。長崎県の方からすれば、佐賀県の人に意地悪されて
 いる気になるかもしれませんが・・・もうこれは、JRや地方行政の解決する問題で
 はなく、国策として考えなければならないのではないかと思います。空港や高速道路
 の整備と同次元です。国鉄民営化は時代の要請であったかもしれませんが、すべてを
 JRと地方に丸投げして「あとはよろしく」というのはいかがなものかと思います。
 造ったのは国ですからね・・・というと、都会の方からは「なんで地方の赤字路線の
 維持に(俺たちの分を含む)税金を使うんだよ!」と文句が来ますので、それも一理
 あるよなぁと思ったり・・・なかなか難しいですね。
 (今更オッサンが嘆いても、どんならんことやで。by妻)


  そして、実は新幹線が通じる地域はまだ「まし」で、新幹線が通る気配すらないと
 いう地方のローカル幹線はさらに厳しい状況なのです。この雑誌では、オッサンが数
 年前まで住んでいた宮崎を通る「日豊本線(にっぽうほんせん)」を、凋落の幹線と 
 いう衝撃的なタイトルで特集していました。それで、気になってこの雑誌を購入して
 しまったのです。(実はこの雑誌は、中学・高校時代によく購入していたのですが、
 その時のストックを捨ててしまったのが惜しまれます・・・)


  さて日豊本線は、福岡県北九州市の小倉駅(新幹線の停車駅)から、九州の東海岸を 
 なぞるように大分県・宮崎県を通って鹿児島まで至る、全長460Kmあまりの長大な幹線
 鉄道です。しかし今では全線を走破する列車はありません。特急列車ですら、博多から
 大分、大分から宮崎、宮崎から鹿児島中央と、3つの区間に分けて運転されています。
  別府・大分までは(ほぼ)複線で博多からの特急列車が30分に一本走りますので、 
 「幹線鉄道」と言っても差し支えないですが、大分以南はほぼ単線(宮崎県内は完全に
 単線だけ)で、列車本数も極めて少なく便利とは言い難いのです。
  特に大分県と宮崎県の県境となる佐伯と延岡間は、大分から宮崎に向かう特急列車が
 ほぼ1~2時間に1本の割合で走っていますが、この区間を走る普通列車はなんと一日
 に1.5本(下り1本、上り2本)しかないのです!このため、普通列車と快速列車に
 しか乗車できない「青春18きっぷ」を使って全国の鉄道完全乗車を狙うマニアの方が
 「攻略が難しい難所」として恐れている区間だということです。マニアの方々は、この
 区間にある駅の名を取って「宗太郎(そうたろう)越え」と呼んでいるようで、ここを
 どうクリアするかがカギなのだそうです。(どうだってええわ、そんなん。by妻)


  宗太郎駅は、このような ↓ 山間部にあります。この写真の特急列車は唸りを上げて、
 この宗太郎峠を越えて行きますが、普通電車に乗ってきて、間違ってこの駅で下車して
 しまいますと、下手をすると翌日まで電車はなく、野宿をする羽目になってしまいます
 のでたいへん危険です。そもそもこの近くにお住まいの方が、この駅を利用しているの
 かすら疑問ですが・・・(そんなら何のためにあるんや、この駅は?by妻)

  何が言いたいのかと言いますと、この日豊本線は既に地方のローカル都市間を結ぶ
 特急列車(高速バスと何とか対抗できる)と、それなりに人口が集積している小さな
 都市圏(大分・別府エリアや、延岡エリア、宮崎エリアなど)の狭い範囲での高校生
 の通学需要(大人は車に乗るので通勤需要はあまりない)にほぼ依存しているという
 ことです。そして沿線人口は全国的に見ても減少度合いが大きい地域ですので、この
 長大な路線の維持管理にかかるコストを賄うことは、ほぼ永遠に不可能ということに
 なります。鉄道以外の収入で稼いでいるJR九州が、もし「儲からないからやーめた!」
 と思ったら廃止されかねないリスクがあると思われます。


  かつてはこの線路を、東京や京都・大阪からの特急列車や寝台特急列車が走ってい
 て、多くの人々がそれに乗って行き来をしていたというのが信じられません。ちなみ
 に東海道新幹線が開通した1964年10月の時刻表の復刻版を見ますと(なんでそんなも
 のがウチにあるんや?by妻)、京都を朝8時に出発した特急「かもめ」号は、大分に
 18:40、延岡に20:50、宮崎には22:00到着です。まさに一日がかりの旅ですね。そして
 東京を夜7時に出発した寝台特急「富士」は、終点大分に翌日13:35の到着でした。
 京都を夜7時に出る寝台急行「日向」は、大分に翌朝9:20、宮崎に13:40、終点の都城
 には15時着でした。今では大分や宮崎と関西や東京との間は飛行機でフライト時間は
 2時間もかかりませんから、このような列車が廃止されるのは仕方がないですね・・・
  ちなみに「宗太郎越え」の区間の佐伯・延岡間の普通列車は、朝から夜までまんべん
 なく8本の列車がありました。この時はまだ、沿線の山間部の方々も車ではなく列車を
 利用していたはずです。・・・と自分も知らない昔のことを想像しても仕方ないですね。


  既に「限られた、少ない需要にしか応えられなくなっている日豊本線の運命は決して
 明るくない」というなんだか寂しい内容の記事でしたが、この雑誌にはカラーの写真が
 たくさん掲載されており、数年前にオッサンがよく利用していた日豊本線沿線の各都市
 の駅や沿線風景がありましたので、懐かしくなってしまいました。


  オッサンがよく利用した宮崎駅は、アミュプラザというJR九州の運営する複合商業
 施設の入った駅ビルが完成していました。しかし昼間はあいかわらず閑散としている
 ようです。県庁所在地なのに駅前には何もなかったのですが、アミュプラザができた
 ことで、平日の夕方や休日には多少の買い物客が訪れているのかもしれません。
  いや、やっぱり宮崎では通勤に車を使う方が大半で、鉄道を通勤に使う方がそもそも
 少ないので、勤め帰りの方が立ち寄るということもないと思われます。アミュプラザも
 苦戦は免れないような気がします。駅は近代的な高架駅なんですけどね・・・



  オッサンは飛行機に乗るために、ここから鉄道で15分ほどの宮崎空港駅に行ったり、
 県内のお客さん訪問のために延岡や日向市、都城などに特急電車で向かいました。
 懐かしいなぁ・・・
  高架駅の西都城駅の写真もありました。駅前には何もなく、ライヴァル?の宮崎交通
 のバス乗り場があるだけです。しかも駅にはエレヴェータどころかエスカレータもなく
 3階にあるホームまではだだっ広い階段を登るしかありません。バリアフリーが当たり
 前ではなかった昭和の頃の建設なので仕方がないですが、これではお年寄りや体が不自
 由な方がますます鉄道を使わなくなりますよね・・・
  でもこの駅は都城の市役所や中心市街地や繁華街(飲み屋街)が近いので、よく利用
 しました。そうそう、宮崎の飲み屋(スナック)は、ウィスキーではなく焼酎がメイン
 なので激安なのですが、都城は特に安かったなぁ。5年前ですが、2,000円ポッキリとい
 うお店もありました。ただし、一番若いお姉さんが60代でした・・・😅 そういえば、
 その店を贔屓にしていた方が、昨年病気で亡くなられたんだよなぁ・・・残念です。
  あ、もちろん都城には、若いお姉さんがたくさんいるお店もあると思います。入った
 ことはないけれど・・・(ホンマけ⤴ ?by妻)


  そして「鉄ちゃん雑誌」ならではの、「鉄道写真の著名な撮影スポット」も掲載され
 ていました。オッサンは、さすがに「撮り鉄」ではないので(いや、ちょっと「その気」
 があったと思うで。by妻)、このような場所で列車の写真を撮影することはありません
 でしたが、小・中学生の頃から雑誌で見たことがあるので、よく知っています。
  まずは、宮崎駅を出て南宮崎駅に向かうとすぐに渡る大淀川の鉄橋です。

  単線で橋桁がないので、ここを通る列車は写真映りがいいのですよね。大淀川沿いに
 は、かつて(昭和40年代)新婚旅行のメッカと呼ばれた頃に建てられたホテル(今では
 改装されて1か所を除いてマンションになっています)が並んでいます。
  オッサンが住んでいたマンションからも近いので、この川べりはたまに散歩に訪れて
 いたなぁ・・・これまた懐かしい・・・


  最後は、人里離れた宮崎市と都城市の境の山間部にある、鉄道写真撮影の名所です。
 境川橋梁という、田野駅と青井岳駅の間にある見事な鉄橋なのですが、かつてはここを
 走る蒸気機関車、そしてブルー・トレイン「富士」と「彗星」を撮影するマニアたちが
 たくさん訪れたということです。オッサンも、電車に乗って通ったので覚えているので
 すが、この鉄道橋をこのアングルから見上げたことはありません。
  この辺りは青井岳という名前の通り、「分け入っても分け入っても青い山」みたいな
 種田山頭火の句に出てくるようなイメージなのですが、このような場所にも現れた当時
 の鉄ちゃんたちの情熱は、相当なものだったようです。

  この辺りの山は植生が亜熱帯ぽくって、最初にこの区間を列車で通過した時には、
 日本の風景とは思えない、ちょっとジャングルのような感じがしました。このような
 場所に明治時代に鉄道を敷設したのは驚異的です。今なら、トンネルを掘って平坦な
 ところを直接つないでいくと思いますが、当時は山に分け入る川の流れに沿って、谷
 間を縫って、等高線に忠実に線路を敷いていくしかなかったのでしょうね・・・


  最後に・・・地方の鉄道だけでなく、この雑誌(鉄道ジャーナル)もピンチのよう
 です。今では紙媒体の雑誌はかつてほど売れなくなっています。オッサンがこの雑誌
 を手にしたのもおそらく10数年ぶりです。昔に比べて、だいぶページ数が少なく薄く
 なっており、紙質も落ちているようでした。そしてさらに衝撃的だったのは、過去に
 掲載した記事を再掲していることです。取材をする余裕もなくなっているのかなぁと
 こちらも心配になりました。応援しないと。(買いもせんのに心配するんか?by妻)


  今回は、またまた違う意味でマニアックな記事になってしまいました。
  鉄ちゃんではない方々にとっては、なんだかわけのわからん記事でスミマセン・・・
 (最近、まともな記事が少ないの~ by妻)


  昨日はその後、たまプラーザ駅の駅ビルに入っている博多ラーメンの「一風堂」で
 夕食でした。休日の昼間に行くといつも長蛇の列なのですが、平日の夜だと空いていま
 す。明太子ご飯とセットです。野菜不足を補うために野菜のトッピングと、博多名物の
 ちび餃子のハーフを頼んだら、1,400円もしました。美味しいけど、高いなぁ~ 
  ビールが欲しいところでしたが、この日は月曜日なので休肝日。ぐっと我慢しました。
 (ビールを頼んでいたら2,000円越えになるところやったな・・・by妻)

  今日は意味もなく長くなってしまいました。重ねてすみません・・・