Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

あの日から12年目・・・

  今日はあの日から12年目ですね・・・
  毎年書いているような気がしますが、あの日はオッサンはちょうど山形県に出張中で、
 地震の後は交通機関が全面ストップしたために現地で2日間足止めを食い、ようやく3
 日目に帰宅できたのでした。
  山形県南陽市の赤湯駅待合室で、備え付けのテレビで突然NHKの緊急地震速報が出て
 「東北地方で強い地震です!」とアナウンサーが緊迫した声で伝えた直後に、経験した
 ことのない大きな揺れがあり、待合室にいた人たちは驚いて全員外に飛び出しました。
  揺れはかなり長く続き、電柱がしなるように揺れていて帰宅途中の女子高生が地面に
 座り込んでいました。これは尋常ではないぞ、と直感しました。揺れが収まって待合室
 に戻ると、なんと本棚が倒れていました。山形は震度5強でしたが、それ以上かと思う
 ような凄い揺れでした。静岡県出身のオッサンですが、今まで体験した以上でした。
 その時点で詳細は不明でしたが、そのわずか後にあのような大惨事が訪れるとは・・・ 


  オッサンはその日、南陽市の職員の方が出張難民?となった方々を案内してくれた市内
 の温泉旅館で一夜を明かしました。宿泊料は3千円。温泉にも入ることができて、夕食も
 出ましたが、電気がストップしていて暗くて寒かったです。テレビも見ることができなか
 ったので、あの信じがたい光景をリアルで見ることはなく、翌日まで何が起きていたのか
 知りませんでした。繰り返しますが、まさか、あんなことが起きていたとは・・・
  
  実は首都圏も大変な混乱になっていたということは、後で妻から聞きました。妻は、
 ちょうどあのパンダのぬいぐるみを洗濯した後、バスタオルの上に置いて乾かしていた
 時にグラっときたそうです。慌ててパンダを抱えて外に飛び出しそうになったそうです。
 いざという時は、目の前にあるものしか持ち出せないのかもしれません。
  そうだ、まだあの時は妻が健在だったんだよな・・・まさかあの2年後に妻が亡くなる
 とは夢にも思わなかった・・・


  日本人にとっては忘れることができない3月11日、この日開催のWBCのチェコ戦に
 は、陸前高田出身の佐々木朗希君が先発しました。

     

  彼もまた震災の被災者で、お父さんを亡くされたと聞きます。そんな彼が、この日に
 WBC日本代表の先発としてマウンドに立ち、見事な投球で日本の勝利に貢献しました。
  地元岩手の方々はもちろん、あの震災で被害に遭われた方々、大切な方を失った方々
 を勇気づけてくれたことでしょう。オッサンもちょっとうるっと来てしまいました。
  しかし彼はヒーローインタビューは淡々と応対し、個人的な感傷などは全く見せませ
 んでした。「常に冷静に投げることができるようにしている」と話していましたが、そ
 れを20代の若者が見事にやってのけるのですから素晴らしい。(ちょっとピンチになっ
 たらオタオタして取り乱すオッサンとはえらい違いやな。やっぱり人種が違うわ。by妻)
  そういえば侍ジャパンのリーダーである大谷選手も岩手県出身だったよなぁ。メンタ
 リティの強さは、東北の方々に共通しているように思います。 


  東日本大震災の残した傷、特に被災者の方々の心の傷は、いまだに癒えることはない
 のだと思いますが、佐々木君の力強いピッチング(ストレートの球速は160Km/h越え)
 には日本中が力づけられたと思います。
  最近落ち目のニッポン、頑張って再び世界でリスペクトされるようにならないとね。
 (そういうオッサンは、何も貢献しとらんけどな・・・by妻)


  今日は妻との約束通り?、部屋の掃除とべランダの片づけをしました。
  関東地方南部は20℃を越えるような汗ばむ日でした。昼間は半袖のTシャツ一枚で
 過ごしたオッサン。2011年3月11日の東北地方がこのくらい暖かければよかったのにな
 と思ってしまうオッサンでした。


  最後に、陸前高田市の海沿いに残る、奇跡の一本松と呼ばれるモニュメントです。
  未曽有の大震災・大津波の後、松林の中に奇跡的に残った一本松だそうです。
 震災を生き延び、これからも生き続ける人々の心の支えになっていることでしょう。
 いつかオッサンも訪ねてみたい場所です。
  日本人が忘れてはいけないこと・・・記憶に刻み込んでおくべきことの一つだろう
 とオッサンは思うのです・・・(私のこともやで。by妻) 

  こんな記事を書いているうちに、日付も変わりました。
  3月11日をまた一回、通り過ぎました・・・