思い出の旅 2007年:番外編ナーポリ周辺 ⑥ポンペイ最後の日・・・ポンペイ遺跡見学~その2~
今夜はポンペイ遺跡見学の記事の続きです。
しかし、ここにきて困ったことが! なんと、これまで頼りにしていた妻の日記が、
ここで途絶えていました。😱 たぶん、この後のハードスケジュールで、疲れて日記
を書く余裕がなかったのだと思われます。ナーポリからローマへの列車や、飛行機の中
ではたぶん爆睡していたのでは・・・ (それは全部オッサンのせいやで!by妻)
ということで、妻の日記を見ながら思い出して書いていたこの旅行記事ですが、遂に
参考文献(笑)がなくなってしまいましたので、だいぶいい加減な内容になりますが、
ご容赦ください。(これまでも結構いい加減だったと思うけどな。by妻)
さて、ポンペイ遺跡の中にあったセルフサービス・レストランで、遅めの昼食を取り
少し休憩をしてから遺跡見学を再開します。
古代ローマ都市の中心であるフォロ(公共広場)のあたりから、再びメルクリオ通り
を北(ヴェズーヴィオ山の方角)へ向かいます。この日は快晴で、暑くて参りました。
レストハウス(セルフサービス・レストラン)のすぐ先に、「フォロの浴場」の跡が
あります。古代ローマ人はお風呂好きで、町の中にはいくつもの公共浴場がありました。
古代ローマの公共浴場と言えば、映画「テルマエ・ロマエ」でも有名になりましたよね。
あ、そういえば妻と一緒に最後に観に行った映画が「テルマエ・ロマエ」だったような
気がするな・・・(オッサンは映画はあまり好きやないけど、これなら喜んで見るやろ
と思うてな。by妻)
テルマエ・ロマエ・・・直訳するとローマ浴場、そのままやん!😆
古代ローマでは上下水道が完備されていましたので、その豊富な水を利用してたくさん
の浴場が作られました。皇帝や権力者による社会福祉政策となっていて、入場は無料。
しかも図書館や運動施設も併設され、また彫刻などの美術品が装飾に使われていたため
「庶民の宮殿」と呼ばれる娯楽施設でした。今の日本でいう健康ランドみたいなものか
な・・・しかし、繰り返しますが当時の日本はまだ縄文時代です。日本人が狩猟と採集
で細々と生きていた時代に、古代ローマでは庶民が無料で浴場で汗を流し、疲れを癒し
ていたのです。もう凄すぎますよね。ちなみに浴場には暖房設備もあったとのことです。
さすがに冷房は無かったと思いますが・・・でも古代ローマ人は氷の製造法も知ってい
ましたので、今でいうところのシャーベットは作っていたみたいです。
(またオッサンの「古代ローマ絶賛」が始まったな・・・by妻)
・・・話をポンペイ遺跡に戻します。ポンペイにも何か所か、大浴場の遺跡が残って
いますが、その一つがフォロの浴場です。あ、先ほど食事をしたレストハウスも、その
敷地内だったようですね。遺跡となってしまった今でも、当時の姿を残しています。
浴槽や脱衣所もそのまま残っており、また休憩コーナーのようなところ(上の写真)
には、採光の天窓があり、壁面は彫刻や装飾画でびっしりと飾られていました。写真が
うまく撮れていなくて残念なのですが、一応それらしい雰囲気はわかります。
あ、きれいな写真がネットで見つかりましたので参考までに掲載しておきます。
本拠地ローマのカラカラ浴場やディオクレティアヌス浴場をはじめ、古代ローマ遺跡
の大浴場はほとんどが廃墟となっていて、装飾品はもちろんのこと、建物の外壁も取り
壊されて持ち去られているので、文字通り廃墟なのですが、ここポンペイでは固い灰の
下に埋もれていたために古代ローマ時代のままの姿が(一部)残っている貴重な遺跡と
なっています。2000年以上前の古代ローマ人は、ここでお風呂に入ってリラックスして
いたのですね・・・
そうそう、この近くだと思いますが、ポンペイでも有名な発掘品がガラスケースの中
に展示されていました。うわ~! なんじゃこら~?
これは、ポンペイ最後の日、高温の火山性ガスにより一瞬のうちに亡くなられた方の
石膏の型だそうです。ある科学者が、発掘の途中で不思議な空洞がいくつもあることに
気づき、そこに石膏を流し込んで固めた後に周囲の土をよけてみますと・・・彼の予想
通りの物体が目の前に現れました。それが、これなんですね。うーむ、あまり趣味の良
い展示ではありませんが、これも貴重な遺跡ということです。このご遺体の苦悶の表情
が、ポンペイの悲劇を余すところなく伝えている感じがします。これを見ている女の子
↑ の表情が、なんともいえない感じですね・・・
長い年月をかけて、人体の成分がすべて分解されてしまい、固まった火山灰の地層の
中で空洞になっていったということです。つまり、そこにご遺体が存在していたという
ことですね。今更ではありますが、被害に遭われた方々のご冥福をお祈りいたします。
フォロの浴場を出て、先に進みます。石造り、レンガ造りの建物ばかりなので、迫力
があります。これが遺跡ではなくてホンモノだったら、大興奮ですよね。
続いては、ポンペイにあった個人の邸宅の中でも有名なもののひとつ、「悲劇詩人の
家」を見学します。別に、この家の主人が悲劇詩人だったわけではなくて、発掘された
調度品や装飾品の絵画にギリシア悲劇の場面を描いたものがあったことから、そのよう
に名付けられたそうです。今でも保存状態が良く、当時の壁画も残されています。
やっぱり強い日差しが差し込むせいか、写真が今一つうまく撮れませんでした。
(オッサンの腕が悪いからやろ。お日様のせいにしたらアカン。by妻)
ここで出土された絵画のいくつかは、少し前に紹介したナーポリの国立考古学博物館
に収蔵されています。やはり保存のことを考えるとそうせざるを得ませんね。従って、
ここに残されているものはほとんどがコピーのようです。
下の写真がその一つ。古代ギリシアの物語、アガメムノンの娘タウリスのイーピゲネ
イアが、父アガメムノンの武運成就と引き換えに、生贄にされる場面を描いたものです。
そうか、こんなスゴイ絵がこの家から発掘されていたのですね。
ちなみにアガメムノンは、かの有名なトロイ戦争でのギリシア軍側の総大将だったと
いう伝説の人。古代ギリシアの悲劇詩人エウリピデスの叙事詩に歌われた場面です。
そうか、この絵があったから「悲劇詩人の家」なんですね。(今頃気づいたか。by妻)
しかしこの絵の素晴らしいこと。2000年も前にこのような絵が、個人の邸宅の居間
に飾られていたことも驚きですが、それが2000年の時を経ても色褪せず、ほぼ完全な
形で残っていることも奇跡のように思います。ヴェズーヴィオ火山の噴火と、火山灰の
下に埋もれて時を止めてしまったポンペイの悲劇が、このような奇跡を生んだといえる
でしょう。発掘されたのは1824年、今からちょうど200年前の出来事なのですね・・・
そうそう、この「悲劇詩人の家」の家にあった絵画は、先ほどのイーピゲネイアの他
にもいくつかあり、なんと昨年のポンペイ展にこぞって出展されていました。オッサン
も、東京の国立博物館まで見に行きました。その時の展示品を収録した図録には、この
邸宅の想像復元図や、見取り図もありました。当時のローマ人の邸宅の典型的なものだ
そうです。とりたてて大富豪という訳ではなかったようですが、随分文化的な暮らしを
していたのですね・・・しかも首都ローマからは少し離れた地方都市なのにね。
家の中には広い中庭があり、雨水を貯めるプールのような池があったそうです。古代
ローマの都市では、一般の家庭にはお風呂はなく、また本格的な調理をする場所もなか
ったそうです。毎日「庶民の宮殿」や、居酒屋や料理屋にでかけていったのですね。
そうそう、この家にはもう一つ面白いものがありました。それは・・・
「猛犬に注意!」と書かれたモザイク画です。玄関口にあったようです。当時はセコ●
がありませんので(アホ 😆)、このような泥棒対策が必要だったのでしょう。
古代ローマ人は実にユーモア精神が豊富で、楽しい方々が多かったようですね。
おっと、やっぱりいろいろ書きたいことがあって長くなってしまいました。
ポンペイ遺跡編、もうしばらく続きます。悪しからず・・・
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。