Bonne(ボンヌ)のブログ

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2023年GW:会津の旅 ⑪会津の誇り 鶴ヶ城へ・・・その2

  今夜は会津の旅の続編です。まだ2日目なんですけど・・・(遅すぎるの~ by妻)
  若松市内の鶴ヶ城の見学途中でした。歴代会津藩主の家系をたどった後、江戸時代に
 最盛期を迎えた松平家の時代になります。将軍家直系(ただし庶子系)の由緒ある家柄
 ということもあり、江戸幕府からは重んじられてきた会津藩。藩政も優れていたためか
 大いに栄えました。しかし、その栄華は幕藩体制の崩壊とともに終わりを告げます。
 鶴ヶ城内には、最後の藩主松平容保(かたもり)の写真が残されていました。まだ若い
 時の写真ですね。15歳で叔父の後継として第9代会津藩主となって若松城下に赴いた
 そうです。結構イケメンだったようで、「今度の殿様は若くてカッコいいわね」、とか
 言われていたかもしれない。😆 (えぇ加減なことを言うたらアカンで。by妻)

     

  江戸からやって来た容保は、会津藩伝統の儒教精神と幕府への恭順、文武両道の実践
 者となりました。案外、外から来た人の方が伝統的価値観を徹底するのかもしれません
 ね。しかし残念ながら、この容保が会津藩の最後の藩主となってしまいます。 


  会津藩主となったのちも、幕府側の要人として幕府といわゆる御三家(尾張、紀伊、
 水戸)の間をとりもつ(特に安政の大獄に絡んだ水戸藩と幕府との和解に尽力)など、
 幕藩体制の維持に奔走し、一躍注目される存在となっていきました。
  しかし風雲急を告げる幕末、容保の、いや会津藩の運命を決する命令が幕府より下り
 ます。それは尊王攘夷運動の吹き荒れる京都の治安維持を受け持つ、「京都守護職」の
 大役でした。賢明な容保はこの難しい役職のリスクを理解して、当初は固辞し続けます。
 しかしこの難局を乗り切るために容保を起用したい幕府側に説得され(幕府への恭順を
 家訓としていた会津松平家ですので断り切れなかったのでしょう)1862年、容保28歳
 にして京に赴くことになりました。当然、会津藩の家老たちは大反対、江戸に馳せ参じ
 容保を説得します。家老の西郷頼母が言う通り「今この難局に向かうのは、薪を背負っ
 て火の中に飛び込むようなもの(まさに火中の栗を拾うもの)」であることは、容保も
 重々承知していました。しかし将軍家に仕える身として、「義」の心で応じるしかない
 と覚悟を決めた容保に、家老たちも涙して従うことになりました。オッサンも、もらい
 泣きしそうな話です・・・(見苦しいからオッサンは泣くなっつうの。by妻)


  ここから後はご承知の通り、容保は京都の治安を守り、朝廷(孝明天皇)を守護し、
 朝廷側との良好な関係を基にして幕藩体制を維持しようとしたのですが、時代は容保の
 努力を翻弄するように流れ、動いていきます。


  過激な「尊王攘夷」運動は、いつしか「尊王討幕」運動に形を変えていき、穏健派が
 力を失うなかでいわゆる「公武合体」の折衷案も骨抜きにされ、ついに大政奉還=幕府
 の消滅へと至ります。梯子を外された格好の会津藩・容保は、朝廷を味方につけた薩長
 主体の新政府軍から「朝敵」として追われる立場になってしまいます。そして一橋慶喜
 の変わり身の早さには唖然としますが、幕府が「イチぬけた」になってしまったことで、
 なんと会津藩が矢面に立たされることになってしまいました。「火中の栗を拾った」末
 の、最悪の結果でした。
 (オッサン、かなり重要なところを端折って、いい加減に書いとるんちゃうか?by妻)
  鶴ヶ城には、京都での戦いを描いた「京都戦争之図」が展示されていました。 

  鳥羽・伏見の戦いの敗退から、一橋慶喜の裏切りともいえる会津藩主・藩士の江戸
 追放・・・藩主松平容保と誇り高き会津藩士を襲う過酷な運命は、最終的には鶴ヶ城の
 落城まで続くことになります。 
  この間に新政府側だけでなく、会津藩側でも穏健派(降伏を主張する者たち)が排除
 され、両者の和解の可能性はなくなりました。米沢藩や仙台藩の仲裁も失敗し、ついに
 「会津仕置(討伐)」が決定、1868年の5月「奥羽越列藩同盟」と新政府の最後の戦い
 が始まります。これが戊辰戦争における事実上最後の決戦となりました。(箱館の戦い
 は既に敗戦処理の段階となっていますので・・・)
  しかし平(いわき)、三春、二本松、そして長岡が落城し、列藩同盟は事実上瓦解。
 そして8月には会津の本丸鶴ヶ城が新政府軍に包囲されるに及んで、ついに万事休す。

 それでも難攻不落の鶴ヶ城に籠城する会津藩士たちは1ケ月持ちこたえましたが、万策
 尽きた9月22日、鶴ヶ城から「降参」の白旗が掲げられました。

      

  容保(会津藩側)は、幕府が身を引き朝廷に権力をゆだねた後は、朝廷に従う姿勢で
 あったようですが、新政府側を牛耳る薩長・公家と、イチ抜けしたい幕府側に翻弄され
 「悪者」に仕立て上げられていったような気がします。「義」を重んじ、誠意をもって
 尽くした結果がこれではあんまりです。オッサン、ちょっと憤慨しております。
  
  そんな歴史の舞台となった鶴ヶ城には、オッサンの目を奪う展示がありました。 
  その名も「泣血氈(きゅうけつせん)」・・・この赤い布切れは、降伏式で敷かれた
 屈辱の緋毛氈(ひもうせん)の切れ端だそうです。この解説文 ↓ を読んで、オッサンは
 また目頭が熱くなりました。

     

  会津藩士たちの無念の思いは、ただ単に戦争に敗れたからだけではないでしょう。意に
 反して「朝敵」とされ、最後は追い詰められ孤立して降伏を余儀なくされた藩の運命に、
 「なぜ我々がこのような目にあわねばならないのだ?」という疑念があったと思います。
 その後会津藩は取り潰されて新政府直下となり、藩主・藩士は陸奥・下北半島に新設され
 た「斗南藩」に落ち延びることになりました。恐らく、藩士たちの手にはこの「泣血氈」
 の切れ端があったのでしょう・・・

     

  歴史は時に残酷で、一人の人間の努力ではいかんともしがたい、という事例の一つと
 いえるのかもしれません。ただ、幕藩体制の終焉とともに、我が国の新しい時代が始ま
 ったことも事実です。しかしそれは、会津藩や「朝敵」とされてしまった人たちの尊い
 犠牲の上に成り立っているということを忘れてはならないでしょう。
  鶴ヶ城を見学して、ついつい、このようなことに思いを巡らすオッサンでした。


  どうでもえぇけど、今回は中途半端な日本史の授業みたいやの~。でも西欧かぶれの
 オッサンは日本史は履修しとらんかったんちゃう?つまり、全部「受け売り」っちゅう
 ことやな。(by妻)


  いかん、このペースではなかなか進まないぞ・・・(アホ)