思い出の旅 2007年:番外編ナーポリ周辺⑤ポンペイ最後の日・・・ポンペイ遺跡見学~その1~
今日は久々に16年前の南イタリア旅行の記事に戻ります。と言いますのも・・・
西暦紀元79年8月24日、古代ローマにおいてユリウス・カエサルが太陽暦を採用
した後ですので、正真正銘の1944年前のこの日のこと・・・
南イタリア・カンパーニャ地方の地方都市ポンペイ(周辺)が、ヴェズーヴィオ火山
の大噴火(高温の火砕流や火山性ガス、津波も発生したと言われています)により壊滅
した日です。その後の大量の降灰とその後に降った雨によって、繁栄を極めたポンペイ
(周辺)は火山灰の下に埋もれてしまったのです。この悲惨な、しかしドラマチックな
大災害は、当時の古代ローマの知識人(小プリニウスさん)の記録が残っているため、
現代でもかなり正確に当時の状況を知ることができます。
(実は一瞬の出来事ではなく、前触れとしての大地震もあり、噴火後の火山性ガスが
ポンペイの町と海岸を襲ったのは噴火からしばらくたった後とのことです。そして生き
残った人々を恐怖に陥れたのは、噴煙によって太陽の光が遮られ、真っ暗な中を余震や
降灰が続いたことで、まさに「この世の終わり」と人々に思わせるような絶望的な状況
になったためだと言われています。)
そのため、(古代ギリシア・ローマ文明を忌むべきものとした中世キリスト教の暗黒
時代を過ぎた後の)ヨーロッパの教養人たちが、自分たちの文明のルーツであるとして
古代ローマに思いを馳せるようになってからは、「灰に埋もれた古代都市ポンペイ」の
ことは、ノスタルジーをもって語られてきたといいます。
そして近代になって本格的な発掘作業が行われると同時に、組織的な盗掘が予防され
るようになり、ついには「古代ローマ時代の都市の姿を実感できるような都市まるごと
の遺跡」として日の目を見ることになりました。その後は、世界中の人たちがワンサカ
(死語)訪れる一大観光名所となったことは言うまでもありません。
ということで、古代ローマ・フェチ(そんなんあるんかい!by妻)のオッサンとして
は一度は訪れてみたいと思っていたのが、ようやく今回実現することになりました。😆
実は学生時代の卒業旅行で行こうと思った時には、ナーポリからのヴェズーヴィオ周遊
鉄道がストライキのため運行中止となり、訪問できませんでした。(その時以来、オッ
サンは「ストライキ」を意味するイタリア語「ショーペロ」という言葉に敏感になりま
した。😆)・・・なので、ようやく約20年ぶりにリベンジできたわけです。
(どうでもえぇけど、前置きが長すぎて嫌気がさしてきたわい。by妻)
ヴェズーヴィオ周遊鉄道の遺跡最寄り駅、ポンペイ・ヴィッラ・デイ・ミステーリ駅
(秘儀荘駅)に着くと、遺跡の入口までの細い道を屋台のお店がずらっと並んでいます。
妻はシチリア島のタオルミーナの小さなブティックで購入したド派手なタンクトップ
を着ています。かなり気に入っていたようですが、いかにも妻が好きそうなタイプです。
山ほど獲れる地元のオレンジやレモンが文字通り山積みされていました。妻はちょっと
気になっていたようですが、オッサンはわき目もふらずに遺跡の入口に突進します。😆
遺跡の南西側にある、このマリーナ門からの入口が、ヴェズーヴィオ周遊鉄道の駅から
来た場合の入場口となります。オッサンは気が逸ります。
入ってすぐに、町の南西側の入口であったマリーナ門があります。この日も暑かった。
マリーナ門という名前の通り、海側の入口と言う意味ですね。当時は今よりも海が近く
にあったようです。そう、噴火の後で当時の人々は近くの海辺にある港から船で脱出を
しようとしたそうですが、噴火と地震の影響で海が大荒れで出航できないうちに、静か
に襲ってきた高温の火山性ガスにやられてしまったのだそうです。気の毒に・・・
ここをくぐると、いきなり遺跡のオンパレードです。当たり前ですね・・・
まずは廃墟と化したアポロ神殿の跡地が目に入ります。祭壇の後ろには列柱に囲まれた
神殿がありましたが、今は2本の柱しか残っていません。神殿遺跡の後ろには、雲に隠
れたヴェズーヴィオ山の姿が見えます。
そして・・・肝腎のアポロ様はどこにおるんじゃい?(by妻)
神殿に向かって右側、神殿の領域を囲む列柱の前に、ここで発掘されたというアポロ
様の青銅像のコピーが置かれています。
その向かい側はバジリカとよばれる集会場の跡です。古代ローマ人はこのような建物
を町なかに作り、政治(演説の場)、経済(商取引の場)、司法(裁判の場)の中心と
していました。「都市」を構成する重要な要素の一つであり、人々が集まるにぎわいの
場所だったのでしょうね。
ここでポンペイ遺跡の大雑把な地図を載せておきます。(地球の歩き方さん、拝借
させて頂きましたがご容赦を!😆)
左下にあるマリーナ門から入り、すぐに見えてきたのがアポロ神殿とバジリカです。
ここからは、そのままアッポンダンツァ通り(妻は「アンポンタン通り」と言って
いた。😆)を東に向かうか、そこから直角に曲がって北にメルクリオ(マーキュリー)
通り沿いに進むか迷いましたが、まずは後者の道を選びました。
すると、すぐに古代ローマ都市の中心部となるフォロ(大広場)があります。ローマ
にも「フォロ・ロマーノ」という政治・経済の中心となる広いエリアがありましたが、
それに比べるとスケールは小さめの、それなりの規模のフォロです。しかし残念ながら
広場は草に覆われています。その周囲を囲っていた列柱が僅かに残っているのと、その
柱廊を支えていた基部のレンガ部分が残っているのみです。
フォロの少し先に行きますと、遺跡らしい雰囲気が強まってきます。ボーっと突っ立
っているオッサンの後ろの祭壇はジュピター(ゼウス)神殿の跡。やはり基部と列柱の
一部しか残っていませんが、なんとなく神殿らしい姿が想像できます。(ホンマけ?)
その両側にはレンガのアーチが残っています。
下の写真の左側がジュピター神殿の跡、右側がヴェスパシアヌス神殿の跡です。ヴェ
スパシアヌスとは、ポンペイ最後の日を迎えた西暦紀元79年当時の皇帝ティトゥスの
父親で、先代のローマ皇帝でした。つまり、彼にちなんで建設されたということは、
この神殿は「ポンペイ最後の日に限りなく近い時期に建てられた」のではないかと思い
ます。ま、ヴェズーヴィオ火山の大噴火では、当時の新しい建物も古い建物も区別なく
廃墟となってしまったのでしょうが・・・
なかなか最初からスゴイ遺跡が目白押しなのですが、この日はとても暑く、遺跡の中は
日差しを遮るものがないので、二人とも暑さでへばってきました。どうしたものか・・・
と思っていると、この門の先に「レストハウス」という看板がありました。ここは遺跡で
はなく、軽食レストランのようです。屋根があり、当然冷房が効いていると思われます。
助かった・・・と思った妻とオッサンは、すぐにここに入りました。お昼時は少し過ぎて
いたので(午後1時過ぎ)なんとかすぐに席を確保できました。セルフサービス方式なの
で好きなものをチョイス。妻は冷製ファルファッレ(蝶々のような形のショートパスタ)
と焼き野菜。オッサンは何を頼んだのか忘れてしまいました・・・😆
やれやれ、これで蘇りました。
この後もポンペイ遺跡の観光を続けますが、なにせこの日の夜の便でローマ・フィウミ
チーノ空港(別名レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)から帰国する予定ですので、ポンペイ
からナーポリ、そしてローマまで移動する時間を考慮し、時間との戦いになります。😆
(オッサンの旅行は常に時間との戦いや。戦ってばっかりや・・・by妻)
・・・ということで、すみませんが、もうしばらく続きます。番外編が次でもう6回目に
なってしまいますけれど・・・たぶん10回まで行くな、こりゃ(by妻)。
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