Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

追悼:世界のOZAWA・・・小澤征爾さん

  少し前になりますが、クラシック音楽ファンにとって衝撃の、いや覚悟はできていた
 のですが、それでもやはり残念な出来事でした。我が国の誇る世界的名指揮者、恐らく
 日本人の指揮者で初めて世界の一流として認められた稀有の存在、小澤征爾さんが逝去
 されました。これまでの活躍に感謝いたしますとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上
 げます。合掌・・・

    

  昨年末の某国営放送恒例の今年のクラシック音楽界を振り返る番組で、毎年夏に松本
 で開かれるサイトウ・キネン・オーケストラの舞台に、車いすに乗って登場した時には
 驚きました。ここまで衰えていたのか・・・しかし、おそらく本人も周囲の人も、これ
 が最後のご挨拶だったとわかっていたのでしょう。彼の恩師である桐朋学園(日本有数
 の音楽大学)の創始者のひとり斎藤秀雄さんの栄誉を称え、同じ指揮者の秋山和慶さん
 とともに小澤征爾さんが設立したオーケストラは、彼にとって何物にも代えがたいもの
 だったのでしょう。(でも、映像を見た時には片岡鶴太郎さんかと思ってしまった。)

  


  オッサンは彼の演奏を確実に聴けるというこの松本フェスティバルに一度は行きたい
 と思っていたのですがついに叶わず、結局生で小澤征爾さんの演奏をきくことはできま
 せんでした。痛恨の極みです・・・


  世界的名ピアニストのマルタ・アルヘリッチさんと共演した水戸室内管弦楽の演奏
 も行けばよかったな・・・(今更後悔しても遅いデ・・・by妻)


  オッサンは学生時代に、文庫本で「ボクの音楽武者修行」という、小澤さんの若い頃
 の奮闘ぶりを記した手記を読んでいました。日本からスクーターを持参して貨物船?に
 乗ってヨーロッパへと渡り、若手指揮者の登竜門とされるフランスのブザンソンの国際
 指揮者コンクールで見事に第一位に輝き、以後の世界的指揮者への道を切り開くまでの
 ストーリーを自伝的に描いたものでした。
   若かりし頃の小澤征爾さんの写真がネットで入手できました・・・

       


  この本を読んで思ったのは、彼は才能があるだけではなく周囲の人たちからいろいろ
 な手助け・援助を受けていたんだなということです。それは、彼が持つオーラのなせる
 業だったのか、親兄弟や親族はもちろん、あらゆる人が彼のために尽くしていたことが
 印象的でした。それは彼がとびぬけた才能の持ち主であることを、応援する方々が認め
 ていたからに他ならないのですが、それだけではなく、何かこう彼のキャラクターが、
 そのようなことを普通にさせてしまったように思えたのです。


  そして、なんと妻もこんな本 ↓ を購入していました・・・

      

  小説家の村上春樹さんとの対談をまとめた本なのですが、小林秀雄賞を受賞した作品
 なのだそうです。しかし小林秀雄といい斎藤秀雄といい、天才的な人たちは例外なく?
 今でいうとパワハラで(昔は「気難しい人」で済んでいた)、「ひでぇおとこ」たちで
 あったようですが・・・😆
  久しぶりに読んでみましたが、なかなかオモシロイ。小澤さんの音楽観や、指揮者と
 しての姿勢がわかるだけでなく、彼の接した世界的指揮者や共演した音楽家のことなど
 も語られており、興味深く感じました。


  そうそう、昔の指揮者といえば、フルトヴェングラー(日本人の間では「振ると面食
 らう」と呼ばれていました。😆)やトスカニーニ、そしてカラヤンに代表されるように
 気難しく天才的な方々(やはり今では「パワハラ」で間違いなし)で、オケや共演者の
 方々にとっても近寄りがたく、ましてや聴衆にとっては神のような存在でした。それを
 ちょっと変えたのがレニーことレナード・バーンスタインさんかな、と思います。彼は
 世界的名指揮者としては、若者向けのコンサートや音楽教育に力を入れた初めての指揮

 者ではないかと思います。そもそも作曲家でもありましたしね・・・

  指揮者は名曲の再現者・芸術家であるだけではなく、教育者でもあり、音楽愛好家に

 とってはもっと身近な存在だと示したのです。


  一方のカラヤンさんは、かつての指揮者絶対時代の申し子であり、一方で映像や録音
 などのテクニカルな世界に関心を持ち、自分のレパートリーを大量に録画・録音をする
 ことで、世界中の人たちにすばらしい演奏を提供しました。(もちろんその作品には、
 彼のエゴが満載なのですが・・・)


  小澤征爾さんは、なんとニューヨークでそのバーンスタインさんに、ベルリンであの
 カラヤンさんに学ぶという、ある意味では得難い体験をされたのでした。音楽を芸術的
 かつスペクタクルに表現することをカラヤンさんに、そして音楽が本来持つ楽しさを伝
 えることをバーンスタインさんに学んだのは間違いないでしょう。


  世界で活躍を始めた小澤さんですが、若いころに日本でも足跡を残しています。当時
 新たに設立された新日本フィル・ハーモニーの設立に関わり、以後ずっとこの楽団には
 縁を持つことになります。

 一方、この頃日本のトップオーケストラと目されたNHK交響楽団には、まだキャリアの

 浅い小澤さんを生意気な若造とみなす集団がおり、ある時に小澤さんの指揮する演奏会

 をボイコットするというスキャンダルが起きました。両者の間には埋め難い溝が出来て

 しまい、その後小澤さんは二度とNHK交響楽団で指揮をすることはありませんでした。


 日本で活躍する前に、世界で有名になってしまった小澤さんは、結局そのキャリアの

 大半を米国や欧州で積み上げることになったのです。それは皮肉にも、世界のOZAWAの

 誕生に繋がることになりました。


  そして38歳の時には小澤征爾さんの代名詞となる、ボストン交響楽団の常任指揮者の
 ポストを得て、彼の黄金時代が始まるのです・・・ボストンではそれに先立って、夏の
 タングルウッド音楽祭の音楽監督にもなっていましたね。
  ボストン響の常任指揮者としてのキャリアは、なんと30年にも及びました・・・

     

  その後はベルリンフィル、そしてキャリアの晩年にはウィーン国立歌劇場管弦楽団の

 音楽監督&ウィーンフィルの常任指揮者にもなり(2003年)日本にも凱旋公演をされま

 した。あの時はコシ・ファン・トゥッテだったかフィガロだったか・・・聞いておけば

 よかった。(後の祭りじゃのぅ・・・by妻)
  そうそう、あのウィーンフィルのニューイヤーコンサートにも、日本人指揮者として
 初めて登場したのでした。


  小澤征爾さんは指揮者仲間ともお友達が多く、特にインド出身のズビン・メータさん
 とは仲良しでした。メータさんがウィーンフィルと来日した際、サプライズで当時既に
 闘病中だった小澤さんをステージに呼び、彼が1曲指揮をする演出がありました。


  そうか・・・いくらでも聴きにいくチャンスがあったんだよな・・・オペラばっかり
 聴いていたので、オケのコンサートにあまり行かなかったのが悔やまれます。(つぅか
 オペラのチケット代だけで、もうお小遣いがなくなっとったからしゃぁないわな。by妻)


  小澤征爾さんの存在は、間違いなく日本のクラシック音楽界に大きな果実をもたらし
 てくれました。彼に学んだ後進の音楽家たちが、今でも、そしてこれからも活躍をして
 くれるでしょう・・・
   小澤征爾さん、有難うございました。どうか安らかにお眠りください・・・