Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

2015年GW フランス・ドイツの旅 ⑨ 印象派の殿堂 その5

  今日は晴れるという予報だったのに朝から曇り空。洗濯物が乾くか心配です。
  ・・・と思っていたらだんだん晴れてきました。やっぱり天気予報って正確ですね。


  さて、いつまでオルセー美術館の記事が続くのか、いい加減疲れてきましたが(アホ)
 始めた以上は最後までやらないとね。もうしばらく続けますが、ご容赦ください。


  日本式の一階(フランスでは0階)には、印象派に先立つ19世紀前半頃の画家たちの
 作品が展示されています。戸外の風景や市井の風俗を描くという点で、同時代の主流で
 あったアカデミズムの古典派の画家たちとは一線を画しています。
  まずは日本でもおなじみのこの方です。農村の印象的な風景を描いた画家、ジャン=
 フランソワ・ミレーさんです。まずは有名な「落穂拾い(1857年)」です。
 写実的に描かれていますが、素朴というかなんというか、ちょっとジンと来ます。画質
 が良くなくて見づらくてスミマセン。


  
  続いては、これまた有名な「晩鐘(1859年)」です。こちらも敬虔な農家の夫婦が
 一日の仕事の終わりに神に感謝を捧げる印象的な場面を描いていて、感動を覚えます。


  ミレーさんは、こうした当時の農村に生きる素朴な、言い換えれば近代化した都会と
 違って発展から取り残された貧しい人々の暮らしにスポットを当てたことで、一躍有名
 になりました。彼自身はさほど社会派という訳ではなく、歴史画や肖像画・裸婦なども
 結構描いていたそうですが、やはり彼のイメージと言えばこれらの絵に代表されますね。
  晩年はパリの南、フォンテーヌブローの森に近いバルビゾンという村に居を構えて、
 同志ともいうべきテオドール・ルソーさんらとともに当地の風景を描き続けました。
 いわゆる「バルビゾン派」という名で呼ばれるグループの中心的存在となりました。


  続いては、何かと物議を醸したギュスターヴ・クールベさん。地方の裕福な家庭に
 生まれ、パリで法学を学ぶはずが画家を志し、25歳でサロン(官展)に初入選という
 当時としては遅いデビューだったそうです。その後、順調に画家として作品を出して
 行きますが、転機となったのはこの作品、「オルナンの埋葬(1849年)」です。
 (私の撮影したデジカメ写真はピンボケがひどいので、ネットtから借用します。)


  今でこそクールベの代表作とされている大作『オルナンの埋葬』ですが、発表当時の
 評判はさんざんだったそうです。クールベはこれを「歴史画」と称しましたが、当時の
 フランスの人々にとって「歴史画」とは、古代の神々、殉教者、英雄、王などを理想化
 された姿で描いた格調高い絵画のことでしたので、このオルナン(クールベの故郷)と
 いう田舎町の葬式に集まった名もない人々という主題を、まるで歴史上の大事件のよう
 に扱い、巨大な画面(縦約3.1メートル、横約6.6メートル)に表して「歴史画」と称する
 のは当時としては常識はずれのことだったということです。(解説より)
  つまり、「田舎者が分不相応な尊大な絵を描いている」と受け取られたのですね。


  しかし懲りない彼は、今度は1855年のパリ万博に合わせた展覧会に「画家のアトリエ
 (1854年)」を出展します。これまた大きなサイズ(縦約3.6メートル、横約6メートル)
  で、彼はこの作品に「私のアトリエ内部、わが7年間の芸術的な生涯を要約する現実的
  寓意」という長い副題を付けて発表しました。これがまた世間の反発を買うのです。

 「寓意画」とは「愛」とか「真実」とか目に見えない形のないものを擬人化して表現
 するという西洋絵画の伝統的テーマの一つですが、パッと見ではこの絵が寓意画とは
 思えませんね。クールベさんが言うには、「中心で絵を描く自分を境にして、右側が
 自分に投資する出資者・賛同してくれる芸術愛好家、左側が野卑な世界の住人を表す」
 と言い放っています。なんちゅう尊大なオトコか?その自信はどこから来るのよ!


  しかし、鼻息の荒い彼はこの自信作「歴史画」と「寓意画」を1855年に開催される
 パリ万博に出展しようとし、それが拒否されると万博会場の近くで自作だけを集めた
 展覧会を開き(入場料は1フラン)公開したという事です。なんとも行動力があると
 いうか、図々しいというか。
  でもそれだけ自分に自信があったのですね。ちなみにこれが、単独の画家の「個展」
 としては世界で初だったといわれています。へぇ、それは知らなかった・・・
   
  まぁ動機はともあれ、結果的には当時の絵画界の常識を打ち破ることになりました。
 「写実」「現実世界を描く」ということがタブーではなくなり、絵画の題材選択にお
 けるこれまでの固定観念が崩れていくことになります。
  ちなみにちょっとご紹介は憚られるのですが、オルセーにはクールベさんの「写実
 主義」の行き過ぎた?作品があります。何もここまでしなくても・・・みたいな。
 興味のある方は、コロナ終息後にオルセーに行ってご覧ください。
  何事にも極端な彼は、1870年のパリ・コミューン(民衆蜂起)に加担、それが失敗
 に終わると逮捕され、失意のうちにスイスに亡命し、そこで生涯を終えました。人と
 してはちょっと関わりたくない方のようでしたが、次世代の絵画の発展に彼が果たした
 功績は大きいと思います。マネが「草上の昼食」「オランピア」を描く前に、クールベ
 さんが道を拓いていたのですね。


  こうしてみると、オルセー美術館は印象派絵画の殿堂として知られてはいるものの、
 それだけではないことがわかりますね。
 (そんなら記事のタイトルを変えたらどうや? by妻)


  最後に、何度か触れている当時のパリ・フランス画壇を支配していた古典主義的な
 アカデミズムの代表的画家を紹介します。まぁ、彼らもその時代を代表する名画家で
 ありますから、そこは公平に扱わないとね。(偉そうやな、何様やオッサン。by妻)
  まずはアレクサンドル・カバネルさんの有名な作品「ヴィーナスの誕生(1863年)」
 です。これ、クールベさんの「オルナンの埋葬」より後、マネさんの「草上の昼食」と
 同じ年の作品です。当時はこういう作品が「良し」とされていたわけですね。
  ちなみにカバネルは、マネの作品をサロンに展示することを拒否したオッサンの1人
 だとのことです。たくさんのお弟子さん(いずれも無名)を抱え、「我こそが正義」と
 思って疑わず、我が世の春を謳歌していたのでしょう。ただしその数十年後には立場が
 逆転してしまうとは夢にも思っていなかったでしょう。

  なんだかこっちの方が「草上の昼食」の裸婦よりも、よっぽどエロティックで退廃的
 な感じがしますけど・・・神話の女神様、ましてや美の化身であれば許されるのかな?


  そして、以前私がこきおろしたジャン=レオン・ジェロームです。前に述べたように
 カイユボット様が印象派の作品を国家に寄贈しようとしたとき、「ゴミを受け取るな」
 と反対の論陣を張った奴です。まぁ、彼がどんな絵を描いていたのか見てみましょう。
 彼の出世作?「闘鶏(1846年)」です。

  彼は古典的アカデミズムの技法を忠実に守り、師であるポール・ドラローシュと伴に
 ローマにも旅行して古代ギリシャ・ローマ文化にも触れ、古典的絵画の守護者としての
 地位を確立していったようです。まぁ、端正でお美しい若い男女、地中海のような情景
 と古代ローマ遺跡・・・「(現実にはありえない)理想」をいかに絵画で表現するかに
 注力をしていたのでしょう。これはこれで「あり」だと思いますが、「これしか認めん」
 というのはいかがなものかな・・・


  オッサン、「肩の力を抜いて記事を書く」って言っとらんかったか?(by妻)
  あ、今回も堅苦しい記事になってしまい、スミマセン・・・