Bonne(ボンヌ)のブログ

死別者ですが余生は少しでも楽しく

久し振りに関西の旅 ⑮法隆寺 ~その7:東院伽藍・夢殿~

  今日は休肝日。スーパーでサッポロ・クラシックの350ml缶×6本入りが出ていたので
 思わず購入してしまいましたが、今夜は我慢です。(いつまで続くかの~?by妻)
  さて、ダラダラと惰性のように続けている関西の旅の記事の続きです。
  法隆寺の東院伽藍、あの夢殿を見学に参ります。
 ここでもう一度、法隆寺の伽藍配置図を掲載いたします。(そうせんと、自分でもどこ
 が何だかわからなくなるからやんな。by妻)

  東院伽藍へは左右を土塀に囲まれた通路を進み、東大門(これも国宝)を通って少し
 歩きます。この門の向こうに見えるのが東院伽藍です。観光客の多くは西院伽藍だけの
 見学で満足し、東院伽藍まで来る方はそう多くないようです。ちょっと歩くからね。


  東院伽藍は西院伽藍とは趣が異なり、狭いエリアに低層の建物が並んでいます。そし
 てその近くには中宮寺という別のお寺があったりして、ちょっと統一感に欠けるような
 感じです。それもそのはず、ここは元々は、聖徳太子が都をおいた斑鳩の宮殿があった
 ところなのだそうですが太子一族の没落後は荒廃してしまい、奈良時代になって新たに
 聖徳太子を偲ぶ寺として建立されたものだということです。西院伽藍は、太子の威光が
 まだ残っていた飛鳥時代の建築ですが、東院伽藍は奈良時代以降の建築なので少し雰囲
 気が違っているのかもしれません。元々は別のお寺でしたが、法隆寺に取り込まれる形
 になり、現在に至っているとのこと。
  
  東院伽藍は、奈良時代に造られた有名な夢殿が中心となっていて、その周囲を回廊が
 囲んでいます。最初に回廊の外にある「鐘楼」の外観を見学します。 

  鐘楼は鎌倉時代初期の作で、国宝です。立派な造りをしています。裾が袴のように
 広がっているのも特徴的です。内部にある鐘は、お隣の中宮寺にあったものらしいです。

 


  続いては奈良時代の天平建築の傑作である夢殿を見学します。
  聖武天皇時代の天平11年(739年)の建造物で、もちろん国宝です。屋根の上に宝珠が
 飾られて、均整がとれて美しい建築です。鎌倉時代に改修されたのでその当時の様式が
 少し入っているようですが、オリジナルの奈良・天平時代の雰囲気を良く残していると
 言われています。
  八角形のお堂で、いかにも古そうな、いや歴史的な建造物という感じです。残念なが
 ら内部は春と秋の特別公開の時にしか見られません。オッサンが訪れた日の数日前まで
 なら見学できたのに・・・残念。次回は特別公開の頃に来よう。

 
  内部には国宝仏像がいくつかありますが、最も貴重なのは本尊である救世観音菩薩
 立像(ぐぜかんのんぼさつりゅうぞう)で、飛鳥時代の作品、もちろん国宝です。
  ネットの写真を参考までに掲載いたします。なんだか妖しい雰囲気がしますね。

     

  この仏像は夢殿ができた時に本尊として安置されたそうですが、制作年代はそれより
 も100年近く前、推定では650年頃の飛鳥時代(聖徳太子の活躍した時代)なのだそう
 です。そして長らく秘仏とされ、一般の目に触れずにいたのだそうです。というのも、
 夢殿は聖徳太子の霊廟として建てられ、この仏像は聖徳太子の姿を現す畏れ多いものだ
 と考えられていたからだということです。
  聖徳太子の家系は太子の死後、政治的影響力を強めた豪族達により滅ぼされてしまい
 まいますが、その後奈良時代になって奈良の都に疫病(天然痘)が流行し、政権の中枢
 にいた藤原氏一族の多くが相次いで亡くなったため、聖徳太子の怨霊のためではないか
 と人々は考え、太子の供養をするために夢殿が建立され、この仏像が安置されたという
 ことです。この仏像は太子を供養するためのものであって、秘仏として人目に触れない
 ようにされていったらしいのです。時代が下って江戸時代に至っても法隆寺の僧ですら
 拝むことはなく、長い布でぐるぐる巻きにされ、固く封印されていたそうです。
  その封印された秘仏を開いたのは誰か?なんと明治政府から依頼を受けたフェノロサ
 さんだそうです。夢殿内の厨子に格納されて固く閉じられた扉を開くように法隆寺の僧
 たちをなんとか説得し、長年の封印を解きました。そのお陰で現代の我々も、一般公開
 の時にだけですが、この仏像を拝むことができるようになったということですね。


  さてこの救世観音菩薩様の仏像ですが、大陸からの渡来人の子孫であった仏師の作だ
 と推定されています。このエキゾチックな顔立ちと表情は、どう見ても日本風ではない
 ですよね。中国の北魏という国の影響を受けた「北魏様式」というタイプの仏像に分類
 されるそうです。西院伽藍の金堂の釈迦三尊像も北魏様式で、男性的なスタイルです。
 (ちなみに飛鳥時代の仏像にはもう一つ「南梁様式」というのがあって、こちらは朝鮮
 の百済の国の影響を受けたもので、より女性的で柔和なスタイルです。観音堂内に展示
 されていた「百済観音菩薩像」がその代表作だそうです。)
  救世観音菩薩像は高さ180cmほどで、クスノキの一木(いちぼく)造りに漆を塗り、
 金箔を施したものだそうです。ちょっといわくつきでミステリアスな仏像なんですね。

        

  確かにアップにすると、ちょっとコワイ感じがしないでもない・・・
  法隆寺の僧たちが、太子の怨霊を恐れて封印していたのもわかるような気がします。


  そのほか、夢殿内にはこの東院伽藍の建立を進言した行信僧都(ぎょうしんそうず)
 座像(国宝:奈良時代)などもあります。こちらは昨年の法隆寺展で鑑賞できました。


  夢殿の周りをぐるりと一回りして、再び記念撮影です。(アホ)

  続いて夢殿の北側にある「絵殿(えでん)、舎利殿(しゃりでん)」を見学します。

 外観の見学しかできませんけどね・・・  

  こちらは鎌倉時代の承久元年(1219年)の建造物で、重要文化財です。
 一続きの建物ですが間に馬道があり、向かって左手が絵殿、右手が舎利殿だそうです。
 絵殿には、平安時代の延久元年(1069年)に絵師・秦致貞が描いた聖徳太子絵伝(国宝)
 が安置されていましたが、明治11年に皇室に献上され、現在は東京国立博物館に所蔵
 されているそうです。(これも法隆寺展で見ることができました。)

     

  ネットの画像ですが、聖徳太子の生涯(業績)を描いたものです。一度に何人もの
 話を聞き分けたという伝説が描かれています。この絵殿の中に10面もの大きな絵が
 描かれていたのだそうです。東院伽藍は聖徳太子を供養し崇めるために建立されたの
 ですが、其の後の太子信仰が平安時代以降にも続いていたことを表していますね。
  しかしよくこんな古い絵(平安時代)が残っていたものですね。


  この絵殿の北側には、奈良時代建立の国宝建築「伝法堂」があります。当時のお堂
 としては珍しく床が板張りになっているそうです。内部には阿弥陀三尊像(重要文化財)
 などの仏像が安置されています。実はオッサン、ここは気づかずに見逃していました。
 (あわてんぼうやからな・・・by妻)
  回廊の外に出て、鐘楼を回り込んで行けばよかったみたいですけど・・・

  さぁこれで東院伽藍の見学も終わり、長かった法隆寺の記事も終了です。約2時間も
 かけてあれこれ見ましたので、ちょっと疲れました。
  
  しかし、帰る前にもう一か所行くところがあります。
  東院伽藍に隣接する中宮寺です。ここはお寺そのものはもうかつての姿ではないので
 すが、絶対に見ておくべきものが一つあります。次回はそれを見学します。
  (なんや、また続くんかいな。by妻)